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VOL.13 鏡の「善用」と「誤用」 2022/08/16(火)掲載
VOL.12 リズミック・カンフーの四つの柱 2022/02/12(土)掲載
VOL.11 自習のすすめ 2021/04/12(月)掲載
VOL.10 「結果と原因」【その過程を想像する力】 2021/01/05(火)掲載
VOL.9 10月 レッスンの音が変わりました! 2020/10/18(日)掲載
VOL.8 リズミック・カンフーの「心・技・体」」 2020/08/14(金)掲載
VOL.7 「余分な力を抜く」ということ 2020/06/14(日)掲載
VOL.6 今のこの時間  2020/05/14(木)掲載
VOL.5 未知との遭遇 2020/05/03(日)掲載
VOL.4 RKの自習の心得  2020/04/19(日)掲載
VOL.3 リズミック・カンフーの「3ポイント+1」  (PART1) 2020/03/08(日)掲載
VOL.2 すき焼きの割り下 2020/02/02(日)掲載
VOL.1 「日日是好日」始まりの始まり。  まずは僕の自己紹介 2020/01/04(土)掲載

 
VOL.13
鏡の「善用」と「誤用」   2022/08/16(火) 
 
三歳の時、父からヴァイオリンを習い始めました。日々の練習で、ことさら厳しく言われたのが「音程」です。
 ご承知のように、ピアノやギターは、楽器の構造上音程は決まったものしか出せないので、音を間違えることはあっても、音程が違ってしまうということはあり得ません。しかしヴァイオリンの場合は、左指で押さえる位置に何の区切りもないので、まず正しい音程で弾くこと自体が難しい。それを聴き分ける聴覚をまず養い、その聴覚によって運動神経を通して指が正しい音程の位置に瞬時に動くように訓練するわけです。 
音階や楽曲の練習で音程を直されるとき、父は、
「違う!」
としか言いません。その音が、正しい音より低いのか、高いのかすら教えてくれないのです。
もちろん僕には分からず、取りあえず少し高めにもう1回弾いてみます。
 「違う!」
今度は少し低めに弾くと、
 「違う!」
 それを何度も繰り返します。違う、というのは高いか、低いかしかないのですが、そのどっちなのか、またその程度、加減が分からないので、営々とそれを繰り返します。
 それを何年も続けて、ようやく自分で正しい音程が聴き分けられるようになって来ます。そうすると難しい曲でちょっとした音程の違いも、自ずと気づくようになります。その音がほんのちょっと高いのか、ほんの僅か低いのか、このメロディーの中ではここ?その「違い」が、ほとんど本能的に、歌いながら分かるようになります。そうすると今度は、微かでも違った音程を聴くことが、生理的に苦痛になって来るのですが・・・。
 
つまり、「違い」が分からない限り、直しようが無いのです。音楽の場合、その違いを聴き分けるのは「聴覚」です。 
前置きが長くなりましたが、リズミック・カンフーで、姿勢や身体の使い方を直すとき、私たちはどうしているでしょうか?何を物差しにしているでしょうか?音楽の場合、「聴覚」が物差しになっているとしたら、身体については何でしょう?
 鏡?視覚?無意識のうちにそれを前提に練習している人は多いのですが、それは文字通り「身体感覚」です。そして、この物差しをもって、自分の「現在の姿勢や動き」と、「直したい姿勢や動き」の違いを明確にすることで初めて、修正の道筋が見えて来るのです。 
 正拳突を例にします。
ある人の正拳突を見て、僕が「違う!」とだけ言ったら、その人は何のことを言われたのかと思うでしょうね。
 何が違うのか?どう違うのか?教えてくれなければ分かりません!と言って、その人は翌月には退会するでしょう・・・(岸の独り言)。
 さて現実は、例えば正拳突の引手が身体の後ろに巻いてしまうのを気付いてもらおうと後ろから手を添えると、その人は、直された引手に違和感は、感じると思います。しかし、普段自分がやっている後ろに巻いてしまう引手の感覚は、身体の中にはまずありません。僕はそこが問題の始まりだと思うのです。違いが分からないものを、どうやって直すのでしょう。
 そう言われているから、違うんだろう。じゃあこっちかな・・・?もう少しあっちかな・・・?とやり方を変えてみても、その繰り返しは暗中模索、ただ探っているだけで練習にはなりません(もちろん最初はそこからがスタートですが)。
 そこで、もし練習の土台になるものが見つけられるとしたら、自分が普段やっている動きをそのまま繰り返し、その時の身体の各部の小さな声、つまり「身体感覚」を自分の身体の中に探して、捕まえて、はっきり自覚すること。そして次に直されたときの違和感を思い起こし、その感覚の違いを修正していく。さらにその「違和感」を、繰り返し繰り返し、徐々に「正常な感覚」に落とし込んでいく。
 理屈っぽく聞こえるかもしれませんが、「直す」とはそういうことだと思うのです。
 この「身体感覚」の鈍化、退化を押しとどめ、覚醒させることは、実は21世紀の健康な身体作りの中でも欠くことのできない課題なのではないかと僕は考えています。
さあそこで、「鏡」の登場です。
今、多くの教室では、レッスンは鏡のあるスペースで行っています。正しい姿勢で行うこと、正しい体の使い方を、皆さんは鏡を通して身に付けようとしています。
 リズミック・カンフーの創成期、
 「リズミック・カンフーは『静の姿勢』、『動の姿勢』を正し、美しい健康体を創ります。」
を標語にしていました。
 しかし、それは鏡の中で実現するものでしょうか?

 多くの人が、何か自分の直そうとするポイントを、鏡に一生懸命映しながら繰り返し、その中で修正しようとします。しかしその時、その人の意識はどこに行っているでしょうか?
 文字通り「鏡」です。
 一方で私たちは普段、同時に2つのことを意識することはできません。虫歯が痛いと言っているときに、階段で向う脛をいやというほどぶつければ、歯の痛みは吹っ飛びます。
 つまり、鏡に意識が行っている時、動いている人の身体感覚は、鏡の中の自分を一生懸命見れば見るほど、まったく「空」の状態になってしまうのです。
 鏡に向かって自分の動きに目をやりながら、意識は自分の身体の中に向いている、身体感覚が全開している、そんな風に鏡に向かっていますか? 
 「鏡の善用」とは、普段の自分の姿勢、動き、それをまず鏡に映し出したら、そこですぐ直すのではなく、そのままその姿勢、動きを続けながら、その時の身体感覚を探ること。これが第一です。多くの人は、自分の姿を鏡に映した瞬間に、身体への無意識状態が意識状態に切り替わってしまい、修正しながら鏡を見てしまうために、自分の素の姿、身体の状態が分からないままです。しかしこの時の身体感覚が自覚、認識できなければ、直すべき方向へのスタートラインに立てないままなのです。
 初めは、いつもやっている姿勢や動きと言うのは当たり前になっている分、身体感覚としては自覚しにくいのですが、それが感じられるようになったら、そこで初めて次に、「こう改善したい」、という姿勢、動きを鏡の前で作り、その時の「身体感覚の違い」をしっかり自覚すること。
 そこから先は、鏡と離れて、ひたすら自分の身体感覚を頼りに普段の感覚から、正しいはずの、違和感がある感覚に近づけて行く。これこそが練習の始まりです。 そうして、よしと思ったら、改めて鏡の前で、まず目をつぶってやってみて、その結果を、目を開けて意識を自分の身体に残したまま鏡で検証するのです。これを何回も何十回も何百回も繰り返し、自分の「身体感覚を頼りに運動神経が働き」、自分の姿勢、動きが正せるようになったら、さあ、そこから「姿勢を磨く」、「動きを磨く」、「技を磨く」が始まります。
ここまで来ると、「鏡の誤用」については、おおよそ想像はつくと思います。
私たちは鏡に向かった時だけ、ほとんど本能的に取りあえず自分を修正しようとしてしまいます。それはもしかしたら鏡の仕業なのかもしれない。本来は鏡を使って、現在のあるがままの自分を、より善い姿勢、動き、容姿の、「こうありたい自分」に高めることが目的なはずなのに。
街を歩いていると、自分の姿が映し出されるショーウインドウの前を通るとき、急に、でもさりげなく自分の容姿や、表情や、服装を直して・・・、でもそのショーウインドウが終わってしまったら、もう元の自分に戻っている、というのはよく見る光景ですね。これってやっぱり、鏡の仕業だと思いません?
 一方で、僕の知っているある人は、人前で鏡を見ることが時々ありましたが、そういう時、ふと鏡を手にしたら、その前の自分の表情を一切動かさずに静かに鏡を顔の前に持って行って、角度を変えながら自分の顔をじっと眺めていたことを覚えています。その時きっとその人は、
「ああ、私って普段こんな顔をしているんだ。」
「今こんな表情していたんだな・・・。」
と心の中でつぶやいていたのかな、と想像します。この人は、鏡をちゃんと友達にしているんだな、と思って見ていました。 
 
鏡の誤用、その一は、鏡はありのままの自分を映す道具のはずなのに、実は鏡の前で「ありのままの自分にさせない何か」が鏡にはある。
 鏡の誤用、その二は、何かを直そうと思って鏡を見ても、その時既に、あなたの意識は鏡に奪われている。

 こうしてみると、鏡の誤用は、使う私たちより、鏡の持つ魔力によるのかもしれませんね。
それとも、私たちは、「美しい自分を見たい」、「嫌な自分は見たくない」、という呪縛から逃れられないのでしょうか?

 鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?
ではなくて、
 鏡よ鏡、どうか私のあるがままの姿を見せてください。 
 岸 俊和
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VOL.12
リズミック・カンフーの四つの柱   2022/02/14(月) 
リズミック・カンフーでは、1999年1月より月に1回の「日曜研修セミナー(札幌では土曜研修セミナーとして2000年1月)」を開設し、本年で23年目を迎えています。
 このセミナーは、皆さんの普段のレッスンの効果をさらに高めるためのきっかけの場として誕生しました。
 コロナ禍の厳しい状況下では、NETセミナーを併せて立ち上げ、実際のセミナーに参加できない人たちも含めて、リズミック・カンフーを通して自分自身の身体の「伸びるところを伸ばし」、「足りないところを補い」、「気付かなかったところに気付き」ながら、「本来の自分」と向き合っています。
 
 そんな中で今年は、これまで37年のリズミック・カンフーの集大成ともいうべき「教範」を、本セミナーを通して学んでいくことになりました。
 その冒頭でお話しした「リズミック・カンフーが大切にしている四つの柱」は、皆さんにとっても普段のレッスンの拠り所にしていただきたいと思い、ここに紹介します。 
 
「リズミック・カンフー」は1984年10月に誕生しました。それは「音楽」と「武術」の異種交配の結実であり、その源泉は、あえて言うなら好奇心の賜物と言っていいでしょう。 
遊・勇・舞・健」。
」は、遊び心。楽しさ。
」は、武術に象徴されるキリッとした「凛々しさ(りりしさ)」(この言葉をNETで調べるとワクワクしますよ!)。
」は、美しさ、カッコ良さ。
」は、文字通り健康。 
ご承知のようにこの四つは、級段位審査会ではそれぞれが受審者の選択コースとなっていますが、これらは、本来リズミック・カンフーが持つ四つの顔の象徴です。  開設当初から、リズミック・カンフーの魅力を伝える要素として、何度となく取り上げてきました。
「遊勇舞健」という演舞(ロンドン交響楽団によるボレロの全曲約15分を使った大作)もありました。

さてそうした中で育まれてきたリズミック・カンフーですが、昨今では「健康」という側面が大きくなってきていますね。しかし、レッスンを行っている皆さん一人一人からは、これら四つの顔は今も脈々と息づいているのをいつも感じさせられます。それが如実に現れるのが、第一に「正拳突」。次に「前進前屈」です。 

 「正拳突」をただの健康体操として、
 「はい、左右の前腕を軽く脇に抱えて、その前腕を前後に交互に動かします。掌は軽く握りましょう。前に伸ばした腕はなるべく遠~くへ~。後ろに引いた腕は肘をなるべく遠~くへ~。それを初めはゆっくり繰り返します。首から肩は楽にして、肩甲骨をほぐすようなつもりで~。要領が分かってきたら、はい、少~し早くしま~す。さあどうですか~?首から肩が、大分ほぐれてきましたね~。その動きに肩甲骨がついて行って、だんだん背中全体がほぐれて行きま~す。さあそれに慣れてきたら、軽~く駆け足をするつもりで、腕をさらに速く前後に振りま~す。」なんてやったら、皆さんの表情、カラダの動き、集中力、空気感は、全く別物になっていると思うのです。 
 「前進前屈」を、
 「皆さん、まず普通に立ってみてください。足には何の負担も感じませんね。さて次に、軽く膝を曲げて、そのままキープしてください。どうですか、時間とともに、ふくらはぎ、太もも、お尻の筋肉が使われているのを感じ始めて、だんだん疲れて来ますね。さあこの運動は、そのように少し腰を落として姿勢をまっすぐに保ったまま移動することで、足腰を鍛える運動です。さあ行きますよ。サン、ハイッ!」
では、今の皆さんの前進前屈の姿は想像もつきません。
これら正拳突や前進前屈に象徴される要素の源泉、それは「勇」。つまり根底にある「武術」の精神。今風に言えば「凛々しさ」を生み出すのが、武術で言う「相手を想定する」ということから生じる緊張感。これが肝要であり、不可欠です。
それによって、気持ちの集中、気の方向が自ずと定められ、そこから醸し出される空気感が、リズミック・カンフーの正拳突であり、前進前屈なのです(他の動きももちろんですが)。
 
始めたばかりの頃は、前述のように健康体操さながらでも、毎週レッスンを続ける中で、長年育まれて来たリズミック・カンフーの文化が、その人なりのリズミック・カンフーを醸造していくのです。 
 なぜ最初に、遊勇舞健の話か?
 それは、皆さんにとっては当たり前のようになっている、でもかけがえのないリズミック・カンフーの根底に流れる、他のフィットネスとは別物の「血脈」をこの機会に再認識し、改めて磨きをかけたいからです。
 それと、ここであえて岸から申し上げたいこと。それは、この四つの顔の中で、皆さんから感じるややもすると「もの足りないもの」をお伝えしたいから。 
それは「遊」。
 以前別の所でも申し上げましたが、同じように身体に善いものを食べても、
「これはこういう風に身体にいい、ここにこんな効果がある」
と思ったり言ったりしながら食べるよりも、
「美味しいね、美味しいね!」
と言いながら食べた方が身体も喜ぶし心も豊かになる、それが本来の健康な姿だと思うのです。
好きなこと、楽しいことを一生懸命やって、「健康」というのは結果としてついてくるものであればいいな、と常々思っています。  
少なくとも、正拳突をやっている時の表情、前進前屈で前に進んでいる時の皆さんの勇姿は、決して、健康のため、身体にいいからこれをやっている、という雰囲気ではない。そう、それをもっともっとその気になって、そういう自分を楽しんでやったらもっとあなたの身体に効くぞ、といつも思いながら見ています。
 それがリズミック・カンフーなのですから。
 
今回ここで、リズミック・カンフーの教範を示していくことは、
「そうか、そこはそういう風にやるのか。」
も、さることながら、是非、「遊・勇・舞・健」の最初が「健」ではなくて、「遊」であることを、心に留め置いていただきたい、という思いからです。
 「勇」や「舞」を、「遊」で楽しむことで「健」は自ずとついてくる。
 「真面目に取り組む」よりもっと健康的な取り組み方、それは「楽しく取り組む」こと。

 元はと言えば、いかつい「武術」に「音楽」の情操を交配したところからが、遊び心の始まりです。
 で、「遊」って?「楽しむ」ってどういうこと・・・?
 また一緒に思いを巡らせてみましょう。
 岸 俊和
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VOL.11 自 習 の す す め
2021/04/11(日)
 
「明日からレッスンは休講になります。」

 これまで37年間、親の死に目に会えなくてもレッスンは休まない、という覚悟で続けて来たリズミック・カンフーが、戦う敵が見えないまま、いきなり白旗を上げて、札幌を除いて全教室・クラブが、休講に入ってしまいました。
このままでは窒息してしまいます。どうやって呼吸して行けばいいのか?息を吹き返して行けばいいのか?模索する中で会員の声が少しずつ聞こえて来て、周りが少しずつ見えてきます。
  出来るところから、出来る人から、一つ一つ形を取り戻しながら、それだけではなく、それと併せて新しい形を模索する。これまでのリズミック・カンフーをただそのまま再生するのではなく、それを越えた、進化したリズミック・カンフーの姿を見つけようとしています。
それは例えて言うなら、20世紀前半に、これまで現実の「芝居」の世界がすべてであった演劇に、これまでなかった「映画」という世界を取り込んだ、新しい広がりの「演劇」の世界を実現する、ということなのかもしれません。
 しかしこれは、これまでの現実のレッスンに、ただインターネットによるWEBレッスンを加えようというのではありません。もちろんそれはそれで、出来ることをやって行こうとは思っていますが、それだけではなく、誰にも、どこでも出来る、古くて新しいこと。意識の改革。
 その一つが、「自習」という世界を見直すことだ、と最近思い始めています。
これまでは、リズミック・カンフーのレッスンを一緒に続けることで、カッコいい動きができるようになる、身体の不調が改善された、健康を維持できる、というように、その原点は「みんなで行う」、ということでした。しかし今回、その原点が崩壊したのです。
今、
「やりたいレッスンが出来なくなった。」
「早くレッスンに行けるようになりたいけど、いつから再開されるか分からない。」
「いつまた、レッスンが休講になってしまうか分からない。」
「周りや、家族の事情で、レッスンに参加できない。」
等々・・・。 
さあここで、発想の転換です。
 
  これまでは、みんなでレッスンをする。みんなでやるから出来る。続けられる。だから一人ではやらない。できない。
多くの人にとっては、それが当たり前でした。
 これからは、
レッスンは本来自分でやるもの。でも一人ではない。みんな好きなリズミック・カンフーをやっている。そしてその仲間と、一緒にレッスンが出来る。
一人でやっている練習を、皆でやることで、エネルギーももらえる。 
そのように、自分個人に原点を据える(=自主)。
「まず、自分の練習がある。それがあって次に、皆で練習する自分がある。」
そのように、ひとりでも多くの人が、そういう心構えでレッスンをするようになり、そういう人たちが一堂に集まってのレッスンは、これこそ僕が期待する、次の次元のリズミック・カンフーのレッスンなのだと、想像しています。
僕が中学時代に、スタフォンハーゲン先生(日日是好日Vol.1参照)にヴァイオリンを習っていた時のこと。
 高校受験でレッスン時間がだんだん取れなくなったとき、これまでは音階、練習曲、楽曲と、それぞれ指導を受けていたものがだんだん減って来て、まず楽曲が無くなり、次に練習曲が無くなり、さらには音階だけ。
最後は(もっとも単調な)ボーイングだけ。これは、左指は一切使わず、右手で4本の弦を順番に繰り替えし、ただゆっくり開放弦で弾くだけ。最後の最後は、D線(4本のうち2番目に低い音を出す弦)だけを、練習時間のある限り繰り返し弾きなさい、というものでした。 
 
その練習の意図は、60年経った今でも、手に取るように理解できます。
高校受験が終わって、その後自分で自由にヴァイオリンを弾けるようになった時の音色は、およそこれまで聴いた自分の音とは別ものでした。もちろん、難しい曲を弾く技術は、取り戻すまで時間を要しましたが。
  で、話題を元に戻して、自分の練習、「自習」。
 広いレッスン場で、あれも、これも、と、いろいろやるのが普段のレッスンですが、自習をする場合、まず考えることは、なるべくシンプルな、基本的なことを繰り返すこと。それと、運動である以上、心肺機能のトレーニングを考慮すること。
キーワードは、「疲れてからが練習」。
 ここはこうじゃないか?ああじゃないか?と、考えることは必要。でもそれ自体は練習にはなっていない。頭の言うことを聞いている間は、身体はトレーニングになっていない。
頭が、「疲れた」と、言っている身体を見放してからが、初めて、「身体が身体の主人になる。」 
 さあ皆さん、こういう練習は、皆と一緒にやるものではない。自分一人でこそできる練習です。
 そう考えれば、教室、クラブの休講は、「よし、そう来たか。だったらこれだ!」
と、その時にしかできない、『自主練習』に励んでください。リズミック・カンフーの同志として、決して一人ではありません。 
 
  久しぶりに仲間と会って、
「いや~、レッスンが無いと身体がなまっちゃって・・・」
と、一見誰もが納得するような当然の言い訳ではなくて、
「えっ?! アナタ、一体どんな練習してたの?」
と、言われるような、コロナ禍にしましょうよ。
岸 俊和 
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VOL.10 「結果」と「原因」  【その過程を想像する力】
2021/01/03(日)
 
手品師が、
「さあ皆さん、タネも仕掛けもありません。よーくご覧ください。」
と言って、見ている人たちの視線を一点に集める。そして次の瞬間・・・。
「ワォーッ!」
という驚きと歓声とともに、手品は見事に成功します。
この時、「結果」は皆の前で起きた奇跡。
そして「原因」は、その手品のタネと仕掛けですね。
ここで大事なことは、手品師としては、ここで奇跡が起きますよ~っと、見ている人の視線を、結果が起きる一点に集めることです。
さてこれと同様のことを、リズミック・カンフーのレッスンで想像してみましょう。
今は、自分の動きに集中し切っている(ときには酔っている)人はちょっと横に置いておきますが。

 周りの人の動きを、
それがストレッチなら、なんであんなに柔らかく開脚できるんだろう?とか。
足刀蹴で、私もあそこまで足を高く上げたい!
あの隙のない体重移動が出来るようになりたい。
正拳突をあんな風にカッコ良く突きたい。
と、いろいろ見るとき、しかしその目に飛び込んでくる姿かたちは、すべて「結果」ですね。
幸いそれを見せてくれる人たちは、手品師ではないので、タネや仕掛けを隠そうとはしていませんが、それでも見る方は、それが手品でなくても、つい結果に目が行ってしまうものです。

 また一方で、世界最高峰の山を征服した人に対して、
「ヘ~ッ、すごい!」
とは思っても、その人が、そこに至るまでどんな準備をしたのかとか、登っている途中、どんな苦労をしたのかは、現実感を伴ってはなかなか想像がつきません(同様の経験をした人は別ですが)。
でも、その本人の心や身体に残っているのは、もしかしたらそこへ至る様々な過程の方かもしれません。そこが無ければ、登頂という結果はあり得ないのですから。
登山に限らず、同じことの経験者同士が話をすると、そこのところが話せるので、大いに盛り上がったり、お互いを身近に感じ合えるのかもしれませんね。

こうしてみると、手品でも、リズミック・カンフーでも、登山でも、私たちには、結果は分かりやすく目に入ってきますが、その結果を支える要因(タネ・仕掛け・原因)を見つけたり、理解することは必ずしも簡単ではなく、でもそこを紐解き、理解し、そこを踏まえて練習をしなければ、結果を真似することは出来ない、といえます。





 
近年プロ野球の世界でも、一流選手の自主トレキャンプに、チームの境を越えても一緒にトレーニングを志願する後輩の選手が増えている、と聞きます。まさに、一流選手と練習を共有することで、その「結果」ではなく、そこに至る過程に触れ、その「結果」に少しでも近づく、あるいはアプローチの仕方、ヒント、つまり「原因(タネ、仕掛け)」を見つける機会となっているのだと思います。
「あんな風に動きたい。」
  「あんな姿勢を身に付けたい。」
  「あんな柔軟な身体になりたい。」
  しかし、そこに見えるもの、それらはすべて、「結果」、つまり、そこに至る様々な原因(タネ、仕掛け)を積み上げてたどり着いた「到達点」なのです。
どんな手品でも、タネも仕掛けもないものなどありません。
どんな練習でも、「到達点」から始める練習法などありません。
 
もちろん、誰にも練習の段階はあります。
初めはなぞることから。先輩のカッコいい動きや、自分のイメージを膨らませながら・・・。徐々に「思い切り動くこと」と「形を整えること」の行き来を繰り返します。身体を動かすことや、型を繰り返すことの楽しさ、爽快感も味わえるようになります。
そして、やがて分かれ道がやってきます。

いつまでも結果だけを追っかけて手品の練習している人は、「手品師のまね」はどんどん上手になっても、「手品」は何一つできない、ということになるのです。 
 
 
  私たちは、プロを目指して練習しているわけではありません。
しかし、例えば「姿勢」一つとっても、もっとこういう風になりたい、という向上心は多くの人が持っているはずです。
カッコよく動きたい、とイメージしながら動く楽しさを犠牲にする必要もないし、そのこと自体は、上達するのに不可欠最大の要素とも言えます。
 ただ一方で、「練習」とは、その結果に至る過程、即ちいくつもの原因、タネ、仕掛けを探し、試し、試行錯誤する、一言でいえば「工夫」の繰り返しです。
そういう土台の積み上げの上に、
こうなりたかった!
こういう風に動きたかった!
という結果が待っている、と思うのです。

 土台作りは、地味だ、面白くなさそう、と思っていませんか?
とんでもない!
美味しい料理を食べることも楽しいけど、その料理を作る楽しさも、決して捨てたもんじゃないですよ。
 
                     

 今年はどんな一年になるんでしょう。
まさに、「日日是好日」ですね。

                                    岸 俊和



※今回のイラストは、スタジオジブリ(東京)のプロデューサー鈴木敏夫さんの「常識の範囲でご自由にお使い下さい」
というメッセージをもとに、使わせていただきました。
 
 
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VOL.9 10月 新しいレッスンCD!
2020/10/18(日)
これまで36年間、リズミック・カンフーのレッスンの音を紡いできました。
1984年10月、RKの創設当時は、3ヶ月に1回、音を更新していました。それから2年後には半年に1回。その後数年経って、現在の1年に1回になりました。

 当初は僕からすれば、少しでもいい音を、RKに合う音を届けたい(否、どんな音を選ぶかでRKの姿が決まる)という気持ちで、次から次へ音を探しては編集していました。
  でも、聞こえてくる声は、
「せっかく慣れて来たかな、と思うと、もう次の音?!」
 半年に1回にしても、
「やっと慣れて来てノレるようになったのに!」
 壬生からは、
これじゃあ動きが止まってしまう!
(岸の内心)「だって、曲と曲を繋げるって大変なんだから・・・。それより曲を聴いてよ!」

 そんな連続。

 当時は今のように「パソコン」なんて便利な道具は無くて、もちろん音楽を編集する専門の施設を使えるはずもなく、レコードの音源をカセットテープに落として、さらに市販のダブルカセットテープレコーダーを駆使して、継ぎ接ぎしながらレッスンテープを作っていました(CDなんてもちろん無かった時代です!)。
 オープンリールのテープデッキも使いました。桃源郷の原音は、今でもこれに残っています。
 
このいい曲を、次にここに繋げたい、という以前の問題として、曲の速さを変える手立てがないので、レッスンで動いている途中で急に速さが変わると動きにくい、というと、何とかこの曲に繋げるしかない・・・(テンポが10bpm以内の違いであれば、何とか許容範囲)。 
そんな繰り返しで、どんなにうまく繋げても、動いている途中でテンポが変わってしまう、なんてことは当たり前でした。
 ちなみに現在は曲の速さは自在に変えられるので、曲想がおかしくならない範囲で、すべて125bpm(1分間に125拍)で揃えてあります。だから曲が変わっても、何の違和感もなく動き続けられるでしょ?

 次に出てきたのがMD(CDの前身ですね)。アナログのカセットテープよりはずっと扱い易くなったので、よし、と何台も機器を揃えてようやく使い慣れて来て、さあこれで!と言っている2~3年の間に、今度は一気にCDの時代へ。
で、MD用のプレーヤー、レコーダーは全部不要になってしまった・・・。

 ただこれで、初めて音をデジタルで扱えるようになったんです。
 
毎年10月に新しい音に変える、ということは、8月の暑さの真っ盛りに音作りが佳境に入ります。
以前の仕事部屋の古いエアコンは、本当に暑くなると機能不全になり、パンツ一丁で窓を開けっ放し、汗だくでタオルを首に巻いて、夜中、さらに朝まで続けます(当時使っていたヘッドフォンは、耳に当たる部分が汗で腐食して廃棄処分になりました)。
 レッスン用の音を作るときは、細かい部分はヘッドフォンで、広がりは、実際にレッスン場で出すように大きな音をかけてみないと分からないので、それを交互に繰り返しながら確認します。
次の日、隣の村田さんのおばあちゃんが、うるさくて眠れなかった!とぼやいて訴えてきます。

 そんな時、僕を後押しするのは、父の話。
僕が赤ん坊の頃、父が夜中までヴァイオリンの練習をしていると、隣家から、
「うるさい!」
という声が来る。
「バカヤロー!俺はこれで飯食ってんだ!」
と、父が怒鳴り返していた、という話を母がしてくれました。
(あーあ、まだ僕は父の血の濃さに負けているな・・・)
 
秋葉原でやっと手に入れた、テンポを変えられて、さらに76分の1秒単位でスタートポイントを調整できるCDプレーヤー2台を交互に駆使して、CDレコーダーに繋いで選んだ曲を連続録音して行きます。
70分以上続くレッスン用のCDを、一気に曲ごとに繋げて行くと、どこかで一瞬ミスが出る。当時はまだ、そこだけ直す、ということができなかったんです。
「半拍食ってた!」 
「2拍ズレてる!」
「ちょっとだけズレてる・・・(多分誰も気が付かないけど、自分で気が付いてしまうと、もうそこが気になって、これを1年間聴き続けるのは耐えられない)。」
そこで、すべて初めからやり直し。
夜明けは瞬く間に来ます。

 次なる問題は、ボリューム(音量)のバランスです。
この曲に合わせると、この曲で急に音が割れる。この曲だけボリュームが小さい(大体初期のCDは、録音ボリュームのレベルが低い)。
  この30数年の変遷を振り返ると、曲探しもさることながら、それらを70分余りのレッスン用の音(初めはカセットテープ、MD、そしてCD)にまとめ上げる作業の方が思い出されます。
出来上がった音をウォークマンにしたためて、夜明けの散歩に出かけるときの心地良い疲労感を、今でも覚えています。

 今回は、凡そ2010年を境に、それ以前に使った曲を半分、それ以降を半分にして、RKのレッスン曲のベスト盤を作ってみました。
どれもこれもが僕のお気に入りで、1曲1曲、それぞれが「皆さんへのプレゼント」の思いで編集しました。

 今も、新しいレッスンCDを聴きながら、このメッセージを書いています。
いい音楽に身体を押される、心を押されるって、最高だね!

 では、ごきげんよう。

岸 俊和

                                           
 
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VOL.8 リズミック・カンフーの「心・技・体」
2020/08/14(金)
 
少々ご無沙汰しました。
世間、というより、世界規模のこの騒ぎ。
 「世の中は 不要不急で 回ってた」
なんていう川柳に、クスッと不謹慎な自分を抑えながら、僕自身は、こんな時にしかできなかったと思われる、自宅の引越しを4月に、さらに本部の引越しを7月に、外出自粛のもと、片付けと整理にゆっくり時間をかけることができました。

 玉川上水のケヤキ
 さてそんな中で最近改めて、今回のことがあればこそ、リズミック・カンフーのこれまでの35年を、様々な角度、思いで、振り返る時間を与えられていることを、ありがたく感じてもいます。

もちろん、本部教室の移転、各イベントの中止等、皆さんに有形無形のご迷惑をおかけしていることは、何を以てしても変えられない事実です。

 歴史上の様々な出来事とは比較する術もありませんが、少なくとも現代を生きる私たちにとって、この未曾有の出来事を乗り超えた向こうで、
「これまでにない新しいリズミック・カンフーの姿」
「これまでと変わらないリズミック・カンフーの姿」
を、皆さんと一緒に迎えられることが、リズミック・カンフーの使命と心得ています。
 
で、今回は、これまでと変わらないリズミック・カンフーの姿を、
「心」・「技」・「体」
の切り口で、明らかにしたいと思います。

日本では、スポーツに限らず、様々な技能の世界でこの言葉が使われるようですが、その元は、相撲の世界でしょうか?
 リズミック・カンフーを、この視点で眺めてみると・・・。
皆さんそれぞれ、想像してみてください。
「心」・・・・・。
「技」・・・・・。
「体」・・・・・。
これらは、これが正解、というものではなく、皆さん一人一人が、こうかな?ああかな?と想像することが、リズミック・カンフーへの理解を深めたり、自分にとってのリズミック・カンフーが何なのか、を知る糸口になるのです。

僕はこのように想像します。

第一に、「心」とは?
歌うこと。

 リズミック・カンフーは、リズムが命、のように言われますが、多くの人が往々にして追っているのは、実は「リズム」ではなく、「カウント」になりがちなのではないでしょうか。
 1,2,3,4,5,6,7,8、とお題目のようにカウントを追うのなら、メトロノームに合わせて動いても何も変わりません。でも、実際は、無意識のうちにも曲想に心を動かされています。
 正拳突を繰り返しているときは、その曲想にいつの間にか乗って、勇ましい気持ちになっていますよね。それはとりもなおさず、曲想、平たく言えばメロディー、つまり歌に乗っているのです。
だとしたら、動いているときに、カウントを意識するのではなく、そのメロディーを一緒に歌いながら動いてみてはどうでしょう。ちゃんと一緒に歌えば、自ずとカウントに合うものです。音楽とはそういう風にできているのですから。
 それが、リズミック・カンフーの楽しみ方の原点であり、そこにこそ、リズミック・カンフーの「心」があるのです。
第二に、「技」とは?
武術。

 ご承知のように、リズミック・カンフーの動きは、武術の型を原型にしています。
初姿、開姿のときの「張翼」は、後ろから羽交い絞めに会った瞬間の防御の型です。
通常の健康体操との決定的な違いはここにあります。つまり、多くの健康体操においては、その運動の形の目的は、この部分のストレッチ、この部分の筋肉強化、というように、運動目的そのものが、形になっています。
 一方リズミック・カンフーでは、それぞれの動作の対象が、相手(敵)を想定しています。

小平市 中央公園 
つまり一つ一つの動作の対象(相手)を想像し、そこに精神を集中しながら運動を行います。これにより、一つの動作が精神と肉体の協調活動となり、身体の運動を通して、精神を併せて活性するのです。

 第三に、「体」とは?
文字通り、「健康な体作り」。

 第二、でも述べたように、リズミック・カンフーの動きは、武術の型を原型にしていますが、武術の目的は、自分の身を守り、敵を倒すことです。正拳突一つとっても、その体の使い方は、その目的のために最も合理的に考えられています。
 一方で、リズミック・カンフーは、その正拳突の形を通して、私たちの健康な体作りにより効果的な体の使い方になるように作られています。前蹴、足刀蹴、さらに前進前屈においても、そのベースは武術の型ですが、それをより健康な体作りに役に立つように構成されています。桃源郷の各型技については、言わずもがなです。

 前述の第一、第二が、第三の「健康づくり」にどういう意味を持ってくるのか、については、また機会を改めてお話ししたいと思います。

 毎日、暑い日々が続いていますね。
「今日も暑い。それがどうした!」

岸 俊和

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VOL.7 「余分な力を抜く」ということ
~第75回級段位審査会中止を受けて~
2020/06/14(日)
 
今日、6月14日(日)は、本来であればリズミック・カンフーの第75回級段位審査会の開催日です。
受審を決めた人にとっては、今日の午後に合わせて体調も気持ちも調え、準備していたはずです。

 しかし現実は、新型コロナウイルスの影響で、札幌を除いて、普段のレッスンはもとより、審査会を初め、RKの各イベントもすべて中止になり、皆さんと直接顔を合わせる機会がいきなり無くなってしまったことは、よもや想像もできなかったことです。

 今必要な二つのこと。
一つは、「本能に根ざす恐怖心に、心を蝕まれないこと」。
もう一つは、「今できることを、腹を据えて真正面から、きちんと取り組むこと」。
 緊急事態宣言が出たからと言って、首をすくめる。それが解除されたからと、恐る恐る周りを見渡す。しかし、それらはすべて、人が決めた基準で変わるものです。それに心までも振り回され、一喜一憂するのはやめましょう。 
 暗闇の中と言えども、その闇にしっかり両目を見開けば、やがて暗闇に目が慣れて来て、実相が見えて来るものです。
   今日は、そんな中で、レッスンで身体を動かすときの最重要と言っても過言ではない、「力の入れ加減と抜き加減」について、皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。

 「余分な力を抜きましょう。」
とはよく言います。
さあ、ではその時、あなたはどうしますか?
例えば、肩の余分な力を抜こうと思うと、肩をグルグル回しながら、フーッと一息ついた気分で、また動き出す・・・。
しかしそれで肩の力が一瞬は抜けたとしても、その後ずっと肩に余分な力が入らずに気持ち良く動けましたか?
こちらから見ている限り、答えは「No」です。
 
 「肩の力を抜きましょう。」という言葉を正確に言い直すと、
「いったん肩の力を抜いて、さあ、また続けましょう!」
ではなくて、
「今の意識と身体の使い方では肩に余分な力が入ってしまいます。肩に余分な力が入らないような意識と体の使い方に変えましょう。」
と、なります。

 正拳突を例にとっても、僕が見る限り、途中でいったん肩の力を抜いた後、そのまま変な力が抜けて勢いのある素晴らしい正拳突になった、という光景にはまずお目にかかれません。
余分な力を抜く、というのは直接的には、筋肉の不要な力を抜く、ということですが、だからと言って、そこの筋肉の力を抜こうとするのは、風邪を引いて咳が出るから、咳が出ないようにする、の類の対症療法ではないかと、最近思うのです。

 心の問題においても、克服したい壁を前にして、何とかそこを突き抜けたいと願う時、ただやみくもにそこに固執してぶつかってもなかなかいい結果は得られないことがあります。 
 
 そんな時、いったんそこから離れて、心を解き放つことで、これまでと違った心のうねりが生じて、思わぬところからこれまでの壁が氷解する、ということがあります。
 
  さて、話を戻して身体のこと、とりわけリズミック・カンフーの動きについては、皆さんがいろいろな事例を見せてくれています。
 何十年も続けている何人もの会員について、あるレッスンで、僕から見ると、
「あ~あ、今日はずいぶん悪い癖が丸出しになってしまっているな。このままではまずいな。」
と思って、終ってから、今日のレッスンはどうだった?と、聞くと、
「今日はすごく気持ちよく、ガンガン動けました!」
という答えに、思わずアドバイスを控えてしまうことが、何度もありました。
逆に、おっ、今日はいい動きしているな、と思って、終ってから、今日の動きは良かったね、と言うと、
「え~っ、今日は全然気持ちが乗っていなかったんですけど・・・。」

 野球のバッティングでも、調子がいいと、その調子の良さがゆえにフォームを崩したり、気持ちが前のめりになって、スランプに陥ってしまう、という話をよく聞きます。
あるプロ野球の監督の話で、僕が事あるごとに印象深く思い出すのは、
「調子がいい時には、必ずそこに悪い芽が育っている。調子が悪いときには、必ずそこにいい芽が育っている。」
という言葉です。
ちょっと拡大解釈のようですが、要は、自分の思い込みは、それが強ければ強いほど、あまり当てにはならないのかもしれません。
 
 ただ始末の悪いことに、この「思い込み」というのは、多くの場合「一生懸命な気持ち」から生じています。
そもそもやる気がないのに、肩に余分な力は入りようがありません。つまり、一生懸命になればなるほど、余分な力が入ってしまう、ということになります。
一方、余分な力を抜けば、一生懸命な気持ちは萎えてしまうとしたら、どうしたらいいのでしょうか?

 研修セミナーなら、ここでそのまま、これを課題にして皆さんに考えてもらうところですが、その場ではないので、このままもう少し話を続けましょう。
 
大体、一生懸命になると身体のある部分、あるいは身体のどちらかの側にに力が入ってしまう、というのは、何をやっていても(多分心の問題の時も)、その人の普段の習性から来ているのだと思います。しかもそれは、多くの人に共通の習性でしょう。分かっていても、一生懸命、夢中になると、どうしてもそこ(多くは首から肩)に力が入ってしまうとしたら、力を抜いてしまっては、気力が萎えてしまうということになるのです。
    僕の経験からすると、この問題の解決の糸口は、肩の力を抜こうとするのではなく、そことは違う所、もっと必要で、肝心な急所にチカラを込める、気持ちを注ぐことです。 

 人間はもともと四つ足動物から進化して二本足になったと言われています。運動をしているとき、腕の付け根である肩(さらに肩甲骨)に気が入っているときには、下半身にはほとんど気力が届いていません。正拳突で言うなら、突いている腕に気持ちが入り過ぎることで、首、肩に余分な力がこもってしまいます。
 「さあ、頑張るぞ!」という時、両腕に力を込めてこぶしを握り締める動作はドラマでもよく見られますが、そういう状況の時に、上体はゆったりしていながら、腰を立て、丹田に気力を込める、という地味な動作はあまり見受けられません。
 しかし、何をやるにも運動の原点は下半身です。
つまり、一生懸命な気持ちは、上半身、とりわけ手や腕や肩ではなく、下半身に入れ込むことが肝要です。
 
もう少し細かく言うなら、運動力学的には足の裏、さらに内転筋(なぜあえて内転筋なのか?)、武道的には、肛門を締める、ということになります。
そこに向けて、一生懸命の気持ちをひたすら集中すれば、首、肩などの余分な力は、結果として抜けてしまいます(ただ、「何事も過ぎたるは及ばざるに如かず」。偏った力の入れ過ぎは、また別の力のアンバランスを生むことになりますが・・・)。

 『もともと人間は、2ヵ所に同時に神経を集中することは出来ません。』
今回の話で、「肝」はこの一行です。
人間は、カラダの2ヵ所の痛みを、同時に「痛い!」と感じることは出来ないのです。
この摂理を是非、あなたの体の中に活かしてください。
 
余分なところに入っている力を抜こうとするのではなく、本来一番必要なところに気力を集中すれば、余分な部位の無駄な力は、自ずと抜けて行ってくれます。

是非、お試しあれ。

岸 俊和

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VOL.6      今のこの時間 2020/05/14(木)
 
この何十年、もしかしたら生まれてこの方、味わったことのない、想像もしなかった時間を、今過ごしています。それは、これまでの日常の景色と何も変わらない中で、でも何か空気感が違うという得体の知れない世界です。
だからこそ、これまで出会ったことのない自分と向き合っているのかと思います。
もちろん楽しいばかりの時間ではありません。でもかといって、悲しかったり、苦しかったり、恐ろしい時間でもありません。
ただ、心の底から、あって良かった、と思える人生のひと時です。
この時間を過ごさずに一生を終えるのと、今この時間を与えられていることを比べると、僕は今の時間を与えられていることに、信者でもないのに神様に感謝したい気持ちです。
その中で、自分の人生を、自分自身をいとおしく思い、またある時のあることを、ある瞬間を、自分の人生のすべてを以てしても償いきれない後悔、懺悔。本当に・・・。
でも、まぎれもない、自分自身の足跡です。 
 
 こんな時でなければ出会わなかった、小学校時代の通信簿(担任の先生の僕へのコメント)。
音楽会の合奏で、隣でヴァイオリンを弾いている人がほんの少し音程が違った瞬間、それをチラッと見やった時の僕の目線の写真。
高校時代、友達からの、封筒の裏に「落ち着いて読め!」と書かれていた手紙。
初恋の女性との写真。

 僕の人生は、この頃、こんな風にして、こんなことがあって、こんな人と出会って・・・と、記憶の時間軸を縦軸にして、それが自分の人生のように思っていました。それはいつでも、思い出そうとすればすぐに出て来るはずの記憶でした。
  でも、自分自身の人生に関わる品物や記録、手紙、写真、と様々なものが、今まさに、この時でなければ決して得られなかった、
『ゆったりとした呼吸』
の中で、改めて掘り起こされてみると・・・。
 これが、これまで歩いて来た僕の人生だと思っている縦軸は、何の質感もないただの一本の線状の道程に過ぎない、と思えて来るのです。
その道すがらで見たり、感じたり、悩んだり、歓喜したり、という景色、その横軸に今の深い呼吸が沁み渡り、その時々の自分の鼓動と同期したとき、そこに自分の人生の真の姿が、とうとうと横たわっていることを、今、実感しています。 
どこをどう歩いたか、ではなく、そこで見えた景色なのです。
 「人生」という一本の線。その線の一瞬一瞬に、様々な面が縦横無尽に絡み、さらに膨らみ、限りない宇宙がそこに広がっています。
もう少し、この時間は続きそうです。 
岸 俊和
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VOL.5      未知との遭遇 >2020/05/03(日)
かつて出会ったことのない光景。だからこそ、その中で、未だ出会ったことのない自分自身に出会うチャンスなのかもしれません。
そんなことを思う日々に、あるRK会員からメールが届きました。
これは、リズミック・カンフーの研修セミナーの受講生には既に紹介したものですが、あえてここで、原文のまま改めて紹介します。 
なんか、心がホッとしました。
 ホームページの「日日是好日」へ、初めてお便りします。 
 先日、TVで、
レディー ガガさんが、
「新型コロナウイルス医療関係者の方々へ深く感謝します。」
と言って、[smile]を歌っているのが聴こえて来ました。
  私は急に、マイケル ジャクソンさんの[smile]を聴きたくなり、リズミック・カンフーのレッスンミュージックCDを探しました。
ありました!
「RK SOUND TRIP 2016」
目をつぶり、ただただ聴いていました。
心に染み入ってくる声色に浸りました。
もう一度聴きました。
何となく体を伸ばしたくなって。
ゆっくり穏やかな呼吸になっていて。自然にストレッチしていました。
体中の毛穴が音楽を吸っているみたい。
私の細胞が喜んでいる。
音楽の力って素敵だな~、と改めて感じました。 
 
翌朝も洗顔後に[smile]をかけました。
聴きながら顔に化粧水をパタパタと。
これも音楽の力でしょうか。手を留めて、ただ頬を包むようにやさしく、ゆっくりと深い呼吸になっていました。
音楽が肌に浸み込んで行くようでした。
優しい気持ちになり・・・、
「そういえば、普段こんなゆったりとした気持ちで、化粧水をつけていなかったな~。最近の私は、なんだかギスギスしてたな~。」
と、気付きました。
その日一日、不思議と穏やかな気持ちで過ごせました。 
 
これを機に、過去のレッスンミュージックCDを聴きまくっている毎日です。ストレッチや基本作法をやりたくなり、自由にやっています。
楽しい!
体も嬉しい!って言ってる。
今は、1998年版にハマっています。
後半ノリノリな上に、これでもかぁーって感じで、ジプシーキングスのメドレー!
もう打ち止めかと思いきや、さらにノリノリは続きます。
こーんなに、「一人RK」を楽しめるなんて!

今日はどうしてもお礼が言いたくて、お便りをしました。
岸創師、リズミック・カンフーに「素敵な音楽」をありがとうございます。

ペンネーム みぃ~みちゃんより
 
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VOL.4 RKの自習の心得 2020/04/19(日)
 私たちのリズミック・カンフーも、新型コロナウイルスの影響で、札幌を除いてほぼ全教室が休講を余儀なくされています。唯一継続している汐入教室は、今月あと1回のレッスンを残していますが、来月からは未定です。
  これまで毎週のレッスンを生活のリズムにしてきた皆さんは、何とか現状の体力、体調を維持するために、自分一人でもできることをしようと考え、実行していることと思います(或いは実行したいと・・・)。
  そこで体力、体調を崩さないように維持するために、一人で何かをする時に必要なポイントを、お伝えします。
 
 人が生きるために必要不可欠なもの。
第一に「呼吸」。
第二に「睡眠」。
第三に「食事」。
第四に「運動」。
 つまり、リズミック・カンフーができることは第四のことで、その前の第一から第三は、RK以前のこととして
「自分を律する」
ということです。 
 
まずはそれらを自分の生活の中で実践することから始めましょう。 
 今は、そうした自分自身との取り組みについては、精神的には追い詰められながらも、現実にはこれまでにないほど時間が与えられている人も多いと思います。
 普段は日常の仕事や雑事に追われて、そんなことを考える暇もなく過ごしている人も、こういう時にしかできないこととして、ぜひ自分と向き合い、自分にとって必要なこと、より良いことの取り組みを一つ一つやってみてはどうでしょうか?

まずは「呼吸」。
あなたは、1日のうちで自分の呼吸を何回、どのくらい意識していますか?
そうでなくてもこういう閉塞感がある日常では、どうしても呼吸は浅くなりがちで、ゆったりした呼吸、深い呼吸は忘れられがちです。
1日に1回でも多く、思い出したら、体内にたまった古いガスをしっかり吐き出して、体幹を上下前後左右に十分膨らませながら、最大体積の中に新鮮な空気を取り込みましょう。
ゆっくり十分吐いて、ゆっくり十分吸う。それを1回、2回・・・、5回、6回・・・9回、10回・・・と繰り返す・・・。 
 この行為自体は、運動神経によるものですが、「呼吸」には最もシンプルに「運動神経」から「自律神経」、即ち「心の状態」に関われる機能があります。呼吸は、人間の生命活動に不可欠な酸素を取り入れると同時に、私たちの精神に重要な影響を与えています。今の閉塞感を癒し、心を調える「ゆったりした呼吸」は、私たちにできる最初のことであると同時に、いつでも最も大切な営みであるといえます。

 次に「睡眠」。
これは難しい。
 人にもよると思いますが、日常の睡眠を常時安定して取るのは、至難の業です。
 生前の父は、ふくらはぎに水虫がありました。どんなときでも熟睡している、隣で寝ている母が、その父のふくらはぎに自分の足を乗せながら、
「うーつうっちゃう、うつうっちゃう・・・」
と鼻歌交じりの寝言を発したそうです。次の日の夕食の時に父がそれを話題にして、
「お母ちゃまは幸せだね。何か人生で悩みごととかあって、眠れないこと無いの?」
と、真顔で聞いていました。

 僕自身は、寝つきは極めて良く、電気を消したら3分後には寝入ってしまいますが、夜中は必ず何度か目が覚めるので、朝までぐっすり、というのは2日間徹夜でもしない限り経験はありません。
そんな僕の信条は、途中で目が覚めても、眠れなくても気にしない、ということです。
 高校時代に、ある同級生に、
「夜、眠れないんだ。」
と話した時に彼女が言ったこと。
「だったら勉強すればいいじゃない?」
ちなみに、彼女は現役で東大の文三に合格しました。 
三番目は「食事」。
さっきから、まったく僕の個人的な経験談になっていますけど・・・。
どんなに面倒くさくても、目玉焼き一つでも、食事は自分で作るのが一番!飛びっきりの料理人が作ってくれた料理は別として。 
 最近個人的な事情があって、出来合いのもので食事をすることが続いてしまったんですが、その中で感じたこと。それは、どれもこれも誰にも一応の合格点の味なのに、その物差しというか方向がどれを食べても同じで、すぐに飽きてしまうという、人生で初めての経験でした。
 幸い、その時期も終えて、また自分で作って食事をする生活に戻っています。
 
僕は自分の、あれが食べたい、これが食べたい、と日々欲するものが、一般的に栄養のバランスが取れていると言われるものが多いので、栄養を考えて食事をするというより、その時々で食べたいものを自分で作って食べることを原則にしています。事実、誰か他の人と食事をするのに外食になってしまう以外は、仕事中の昼食は別として、100%自宅で食事をしています。
で、僕にとって食事は、「健康」よりも、「おいしい!」と味わいながらその時間を過ごすことです。よく、二言目にはこれは体にいい、こういうところにいい、と言いながら食べている人がいますが、僕は
「ンマイ(ホントにおいしいものが口に入っているときにはウマイとは発音できないんです)!。美味しいね!」 
と言いながら食べるのが好きです。
間違って失敗しても、誰のことも恨まなくて済みます。夕食には大体2時間くらいかけますが。
  そして、4番目は「運動」。 
 話が長くなってきていますので、詳しくは次回お伝えするとして、一言。
   学校の勉強は、苦手なところを集中的にやることも一つの取り組み方かもしれませんが、身体を動かすことは、何をやるにしても、全身の各部が大なり小なり働いての一つの動作です。
あなたが普段90分のレッスンをやっているとして、それを基に自宅で20分の時間で身体を動かそうと思うなら、苦手なことだけをやっても効果はほとんどありません。まず、初めの15分で、ストレッチ、基本作法、運歩法(これは無理なら省略)の代表的なものを軽く行い、次に最後の5分でやりたい練習をやる。
これが大事です。
 どんな小さな動作でも、あなたの身体は全体として機能しています。すべての筋肉、骨格、関節がそれに関わっていることを忘れないように。
 もう少し、リズミック・カンフーにこだわらずに運動するなら、外出を控えた生活の中で一番弱るのは、下半身であることから、人混みは避けて安全な道路や公園などを、歩いたり、軽くジョギングを40~60分行う。この時に一番味わって欲しいことは、それをすることによって得られる「快活な呼吸」です。

 さあ、今しかできないこと、今だからこそできることを実践するチャンスです!
 そして、新しい自分発見を!
岸 俊和

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VOL.3 リズミック・カンフーの「3ポイント+1」 (PART1)  2020/03/08(日)
皆さん、こんにちは。岸です。


今日は、リズミック・カンフーが創設以来、大切にしているポイントのお話です。
なぜ「4ポイント」ではなくて、「3ポイント+1」なのか?
まず、「4ポイント」ではなんか締まりがないじゃないですか。
でももちろん、理由はそれだけではありません。
初めの3ポイントは「身体の動き」についてのこと、後の+1は「心の動き」についてです。 

もうすぐ・・・ 
その3ポイントの最初に挙げるのが、「体重の移動」。
リズミック・カンフーに限らず、私たちが普段「運動」と言っている動作は、体重の移動がその大本になっているわけで、体重の移動がキチンと出来ている、ということはしっかり運動が出来ている、ということであり、体重の移動が十分でないと、似たような動きをやっているようでも、実際は運動が十分行われていない、ということになってしまいます。
 総じて、例えば正拳突の2カウントを同じ回数やっても、初級者より有段者、さらに高段者の方が、数倍のエネルギーを消費しています。その一番の理由は、体重移動がしっかり行われていて、その土台の運動に伴って、大きく全身を使っているからです。
  また、「歩く」という動作は、歩く方向に体重を移動する運動であり、その運動が鈍いと、歩幅も狭くなり、歩みも遅くなります。


 レッスンで、「体重移動」そのものや、体重移動を付けた「正拳突」、また「桃源郷」の防御法・攻撃法、さらに、「前進前屈」をはじめとする「運歩法」においても、【体重の移動をしっかり行う】ことは、とりもなおさず【下半身をしっかり使う】という運動の原点です。
 右足から左足へ、左足から右足へと、体重をしっかり移動させる、ということは、つまり身体の土台である下半身を十分使うことにつながるわけです。
皆さんにとって、毎回のレッスンの目的の一つは、大なり小なり健康作り、体力作りだと思います。だとしたら、今行っている運動の効果をより高めるためには、下半身を十分使って、体重をしっかり移動させることが不可欠です。

 公園で小さな子供たちが遊んでいる様子を見ていると、10人が10人、体の中で一番よく動いているのは両足です。両手は、大人と比べると、まだほとんど手としての機能は無く、動き回るときのバランスを取る道具のようです。

足と手が連動して、両方を十分駆使できるようになるのは10代くらいからでしょうか?
 それが、20代から30代になってくると、プロのスポーツマンは別として、多くの人は足より手の方を動かす機会が増えてきます。おおむね、人間は年齢とともに運動する部分は、下から上に上がって来るようです。
それに伴って、だんだん運動量も減ってきます。


脚も、そして腕も横着になってくると、最後は口の運動だけ。おしゃべりと、そして、食べること・・・。

 ちなみに、体重が50㎏の人の脚の重さ、腕の重さって、どのくらいあると想像しますか?
5・・・(想像してみてください)・・・4・・・(想像してみてください)・・・3・・・(想像してみてください)・・・2・・・(想像してみてください)・・・1・・・・・・・・。
ハイッ、答えは、脚1本が約9.25kg。腕1本が約3.25kg、だそうです。
少々乱暴ですが、正拳突で腕を1回動かすことは、3.25kgの運動。それに対して、下半身を使って、しっかり1回体重を移動することは9.25kgの運動になる、つまり
「脚を動かすことは、腕を動かすことの3倍近い運動になる」
ということです。

桃源郷も然り。
 皆さんは、正拳突や桃源郷で、自分の身体のどこに気が行っていますか?
足より手の方が扱い易い分、どうしても上体、特に手の方に意識が行ってしまって、下半身はたまにちょっと気を付けるだけ。その方が「やった気になれる」、身体を「動かした気になれる」、というわけです。

 
特に2Cになると、下半身は上半身の動きを何とか支えている、無機質な「つっかえ棒」のようで、とても下半身に気が入っている、下半身から身体を使っているとは言えない、という人も多く見受けられます。

 毎週どうせやるなら、少しでもより自分のカラダのためになるレッスンをしたい、と願うなら、そのコツをお教えしましょう。
それは、
「一に『下半身をしっかり使うこと』。二に、『下半身をしっかり使うこと』。三、四がなくて、五に、『下半身をしっかり使うこと』」
です。

それでは、ごきげんよう!

 岸 俊和

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VOL.2 すき焼きの割り下 2020/02/02(日)
僕は、食べることが大好き。
でも、世にいう「グルメ」と言うわけではありません。例えば、「タマゴの調理」には、結構こだわりと執念を持って毎回毎回取り組みます。
その筆頭は「目玉焼き」。これは父親から2代続く、世紀をまたいだ課題です。
  「目玉焼き」について述べるには、もう少し修行が必要なので、今回は、やはりタマゴが欠かせない料理、「すき焼き」のお話です。

  すき焼きを食べる時の「タマゴの溶き方」も、もちろんおろそかにしてはいけません。「溶き方」によって、すき焼きのそれぞれの具の味わいが変わるからです。
つまり・・・、と、このまま話を続けたら、
「まあ、好きにやったら?」
と言われそうなので、今回は皆さんに、絶対すぐに役に立つ「割り下」の作り方です。
「すき焼き」と言うと、日本の代表的な料理の一つ。家庭でも、外食でも、すき焼きはいつも身近な食べ物でした。と、過去形にしたくなるのは、最近は外食ですき焼きを食べられるところが、ずいぶんと少なくなったと思いませんか?
また少々横道にそれますが・・・、
「すき焼き」を提供するお店って、ほとんど「しゃぶしゃぶ」もありますよね。
これが問題だ、と僕は勝手に推察するのです。

雪景色の天橋立
一つに、食べる側の好みが、「すき焼き」よりもサッパリ系の「しゃぶしゃぶ」に流れていることもあるかもしれませんが、問題は店の側の事情ではないか。つまりしゃぶしゃぶは、具材をすべて熱湯に入れて食べるわけですから、店の空気も汚れないし、少々食べるタイミングを逸しても、あまり問題ないんです。ところが「すき焼き」は、ちょっと熱を通し過ぎると、肉が硬くなる、味が濃くなってしまう、挙句の果てに、焦げてしまうと周りに煙をまき散らす、その鍋の後始末も・・・、と、店側の「すき焼き」への気配りと手間は、「しゃぶしゃぶ」の比ではない。
  そうなったら、世の流れが「しゃぶしゃぶ」に行っているのに、手間のかかる「すき焼き」に固執する必要はない、となって、外食で「すき焼き」を食べられるところは、「しゃぶしゃぶ」に比べて減ってしまったのではないか?
でね、もっと言うと・・・、
ハイ、「割り下」の話でした。

この割り下の作り方は、僕が20代後半、ある人の紹介で、赤坂の料亭の女将にかわいがってもらっていた時に、直伝で教わったものです。
子供のころ、家ですき焼きを食べていた時もそうでしたが、食べ始めはいいけど、だんだん入れる具材や、熱加減によって割り下の味が変わって来てしまう。そうなると、ちょっと味が薄くなってきたから醤油を足せ、砂糖をもう少し入れろ、濃くなり過ぎたから水を足せ、と、いつの間にか割り下の味は、最初とは似ても似つかない、とりあえず食べられるすき焼き風煮込みになってしまう。

昨今ではスーパーでも、出来合いの「すき焼きの割り下」なんていくらでも置いてありますが、それに簡単に手を伸ばすのは、僕としては主義に反するところであります。
さてそれで、ようやく「直伝の割り下の作り方」。

これは至って簡単で、
【酒:4、水:3、醤油:2、みりん:1】
後は好みで、砂糖を入れる。
たったこれだけです。
あくまで僕の所見ですが、この割り下は、「最初から最後まで、上品な味わいが壊れない」に尽きます。
補足は3つ。
砂糖を入れる量は、あくまで好みですが、おそらく想像しているより入れることになると思います。味見をしながら調整してください。
この割り下は、すき焼きだけでなく、かつ丼や親子丼、等の丼物、うな重、焼き鳥のタレにも、ぴったりです。
  この時も、調整は砂糖の量だけです。丼ものに玉ねぎを刻んで入れるなら、玉ねぎの甘さが出るので、砂糖は控えめに、といった要領です。
「4:3:2:1」の黄金比率は、厳守。これが肝。

 
  これで今回はおしまい。
なんだ、最後の10行だけで良かったんじゃない?なんて言わないでくださいね。
  それではごきげんよう!

  おまけ:
皆さん、ご存知かもしれないけど、すき焼きに「トマト」入れるとおいしいよ! 
  岸 俊和

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「日日是好日」始まりの始まり
 皆さんこんにちは。岸 俊和(としや)です。
2020(令和2)年を迎えて、本ホームページでは、「日日是好日」という新しいページを立ち上げました。

  本ページの狙いは至ってシンプルです。
僕自身、自分の担当する教室以外では、「RKの代表」という顔で皆さんと接することがほとんどで、なかなか皆さんと素顔で触れることが無いままこの35年余りをやってきました。
そこでこのページでは、一個人として僕自身がRKを通して感じたことや見聞きしたこと、日常での素顔を皆さんに見ていただきながら、皆さんをもっと身近に感じたい、と思っています。

  皆さんからも、様々な意見、感想、希望、RKでの体験等、聞かせていただければうれしいです。
 2020年1月
岸 俊和
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VOL.1
まずは、ぼくの自己紹介・・・ 2020/01/04(土)
初姿。岸 俊和です。
1949(昭和24)年4月生まれ。東京都出身です。
1984(昭和59)年10月、東京都新宿区に、「リズミック・カンフー」を開設しました。
 当時は、「水」と「油」のような「音楽」と「武道」を混ぜ合わせることを、どうして思いついたの?と、よく聞かれましたが、最近ではそんなことも耳にしなくなりました。
  一つには時代の移り変わりの中で、社会の様々な事象に対する音楽の役割が飛躍的に広がったこと、それと、「武道」という古めかしい、封建的なイメージが、今はずいぶん薄れてきているということもあるのでしょう。
ただ僕の中では、これという根拠があってリズミック・カンフーを始めたわけではなく、そこに導かれたのだと今は思うのです。
 
 三歳のときから、父によってヴァイオリンを通して目覚めさせられた音楽の世界。
一方で、小学校では、やんちゃ坊主で喧嘩好き。父には「今日も喧嘩で勝った!」と報告すると「よし!」と褒められ、その後、母はよく学校に呼び出されていましたが、僕を非難する先生に対しては、
「あの先生はまだ若いから駄目だ」
と決めつけ、僕に少しでも理解を示してくれる先生には、
「あの先生は俊和のことをわかってくれるいい先生だ。」
と、呼び出されている理由よりも、僕のことが話題になること自体が、うれしそうでさえありました。
  そんな僕が、一方では剣道から始まって、空手、拳法、功夫、キックボクシング等々、いろいろな武道、格闘技に触れてきました。そんな中、ある武道で初めて黒帯を取ったとき、皆の前で先生に感想を聞かれて、
「もっとケンカに強くなりたいです!」
と言って、先生を初め、皆にひんしゅくを買ったこともありました。
 
  少年時代は父から、
「ヴァイオリンを弾かない奴は俺の息子ではない」
という環境で、まさにスパルタ式で厳しく育てられました。
 中学時代は、読売交響楽団の初代コンサートマスターのドイツ人、ヴォルフガング スタフォンハーゲン先生に師事し(この先生のヴァイオリンの指導法の一つは、現在皆さんが当たり前のようにやっているリズミック・カンフーのレッスン方法にも生かされています)、
「You are the best!」
と言われて、このままドイツに連れて行かれるのかな、なんていう空気もありました。
 しかし、二十歳になったとき、父に
「ヴァイオリンは俺が見つけた人生だ。お前はお前で自分の人生を見つけろ」
と言われて、ヴァイオリンを取り上げられました。
 その頃はもう、ヴァイオリンニストになろうと思っていませんでしたが、それでもヴァイオリンは、幼少から青春時代の自分の中に一番深く根差したバックボーンだっただけに、それを植え付けた父に、首根っこからいきなりズッポリ引き抜かれたときは、二十歳を過ぎた自分が大粒の涙を流したことを今でも覚えています。
今思えばそれは父の、僕に対する大きな愛情と期待がゆえの言葉だったことは、十分理解でき、感謝もしています。
 
  そんな雑草的武道経験と、父から与えられて最後は取り上げられた音楽。
僕がその両方を深く心に閉じ込めながら、それぞれは相反する対極にあったはずの二つの世界が、三十歳を過ぎて、それらをようやく穏やかに自分の中で受け入れらるようになった頃なのかもしれません。
一見同居などあり得ない二つの世界。音楽のリズム、抑揚が、武術の動きと同化しても違和感がない、という情景がふと垣間見えたのです。
  そのわずかな隙間から見えた世界は、そこにひとたび足を踏み入れてみると、これまでの音楽の世界、武道の世界で僕自身がここまで、と終わりにしていた壁が一気にはじけて、そこには未知の、新しい宇宙が広がっていました。

  それが、「リズミック・カンフーワールド」。社名の「RK World」です。
 
 

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