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RK審査会の総評
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< 総評タイトル >

<四段以上の認定証>

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 第63回 総評:《 出来てからが練習 》 
 
           第63回級段位審査会が、無事終了しました。
 演舞の練習をするとき、私たちはよく「覚えてからが練習」と言います。
では、普段のレッスンでの一つ一つの「動き」や「体の使い方」はどうなのでしょう。

 初心・初級者にとっては、ままならない動きも多く、先生の言うことや、先輩の動きを見ながら、
一つ一つ真似して出来るようになることで手いっぱいです。まず、皆と一緒にスムーズに動けるよう
になることが課題、と言っていいでしょう。それは正解です。

 問題は、そこから「出来るようになった」、と思った後です。
何事につけてもそうですが、体を動かすことも、慣れてくると要領を覚えてきて「楽な使い方」に
流されがちです。さらに気持ち良く動けるようになると、そこから「気負い」も生まれてきます。
「悪い癖」の元凶は、ほとんどがこの2つです。
 ある動きが出来るようになった、と言っても、あなたの体はそうなるまで一体、何十回、何百回、
何千回、出来ない動きを繰り返してきたのでしょう。
いつの間にかついてしまった悪い癖を、あなたはどれだけ繰り返してきたのでしょう。
しかし、出来ないで繰り返してきたこと、悪い癖を繰り返してきたことは、記憶に残りません。
出来るようになった、癖が直った、そのことだけが残るのです。
 「出来た!」「直った!」・・・。そんな「悪魔のささやき」に耳を傾けてはいけません。
それは、『やっとその練習のスタートラインに立てた』、ということなのです。

 もしあなたが「出来るようになりたいこと、直したいことがたくさんあるんだ」と思っているとしたら、
それらをただ追っかけまわしても、モグラ叩きの如し、です。
あなたにとって必要なこと、それは、出来るようになったこと、直ったことが、どうすれば身に付いて
いくのか、の単純な道理を知ることです。
その道理とは、出来なくて繰り返してきた回数よりも、出来た回数を1回でも多くすること、繰り返して
きた悪い癖よりも、1回でも多く正しい動きを行うことです。そして続けることです。
言い換えれば、「出来たことを癖にする」、「正しい動きを癖にする」ということです。
きちんと動くと気持ちいい、では足りません。きちんと動かないと気持ち悪い、と生理的に感じられる
ようにならなければ、身に付いたとは言えません。
どんな小さなことであっても、その1つに対して道理にかなった克服ができれば、あなたはどんな
課題も、一つ一つ乗り越えて行けます。

 これは、私が言っているのではありません。そのように堅実にやっている人が、皆さんの身近に
いるのです。

リズミック・カンフー本部 創師 岸 俊和

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 第62回 総評:「 爪先と目線の方向 」 
 
           第62回級段位審査会が、無事終了しました。
 当日の講評で、「たとえ泥水に顔を突っ込むことがあっても、夢の方向にしっかり爪先を向けておけよ。」という、ある人の話を引用しました。

 リズミック・カンフーでは、「爪先の方向」を、基本の中でも特に大事にしています。 
それは、一つ一つの動きが、相手を想定し、そこに自分の力を集約する運動だからです。 

 さらに、運動の方向に(特に体重が乗っている足の)爪先をきちんと向けることは、足首、膝、股関節の一連を軸とした、下半身の正しい使い方の大本でもあります。
一つの動作において、爪先の方向が定まらないと、「土台の向き」が不安定になるために、上体の形をいくら真似しても、どこか違う、何か違う、となってしまいます。

 何事も「基礎が大事」とは、誰もが知っています。運動では基礎(=土台)とは、下半身です。
しかし、レッスン中に、先輩や先生の上体や腕の動きは注視しても、下半身をしっかり観察し、どう使われているのか、どう使おうとしているのかを学ぶ人は稀です。蹴り技で言うなら、蹴り足にばかり目が行って、軸足を見ていないのと同様です。

爪先に始まる運動と、それによって集約される力の方向が定まる。
次に、その方向に命を与えるのが「目線」。リズミック・カンフーで言う「気の方向」です。
「目」は、まさにあなたの心の扉であり、そこから一つ一つの動作へのあなた自身の思い、エネルギーを伝えていくのです

爪先は運動の方向(多くは正面)を向いている、でも、目線は別の方向、あるいはただ何となく前の方が見えているだけの目は、その運動や、技の力を虚ろにしてしまいます。

蹴った後、前に出るときにチラッと目線を落としてしまう、自信がないときにチラっと他を見てしまう、というのは、弱い心の現れです。
もっと怖いのは、それが習慣になってしまっていて、本人が気付いていない場合が多いことです。
見るならしっかり見る。そうしないと、その場を取り繕うことはできても自分の力にはなりません。

私たちは日常でも、目の前の出来事と「きちんと対峙する」ということが、実は苦手です。
世の中は、いつも気持ちよく向き合えたり、大事にしたい、ということばかりではありません。
得意ではない、嫌なことは最小限に済ませたい、できれば避けて通りたい、そんなことにも囲まれているのが私たちの実際の生活です。

そんな中にあって、だからこそ「体」と「心」を鍛える。
私たちはレッスンで、つま先の方向をしっかりと正面に向け、目の前に想定した対象をきちんと直視して気持ちを集中し、「技」を絞り出す。そういう練習を繰り返し行っています。

 『心・技・体』を磨く」とは、そういうことです。

リズミック・カンフー本部 創師 岸 俊和

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 第61回 総評:「 準 備 力 」
           第61回級段位審査会が、無事終了しました。
 審査会を通して、いつも感じること。それは、特に初心・初級の人たちが、審査を申し込んだ時から当日までの間に、目に見えて動きがしっかりしてくることです。
 その原因は、どこにあるのでしょうか?

 審査を申し込むと、そこから受審に向けての準備が始まります。
経験を積んできた人と違い、初めて、または経験の浅い人は、当然緊張感が膨らんできます。

 武道でいう「心・技・体」の視点から、この「準備」について考えてみましょう。

 まず「心の準備」。
 その大本は、実はこの、初心者の心状に象徴される「緊張感」です。
本番では、誰でも多少は緊張するものです。
初心者は、審査に向けた練習の中で、緊張感を伴って練習をするのに対して、経験者はレッスンで、真剣さが増すことはあっても、緊張することはほとんどありません。つまり、心の準備がされないのです。
 この「緊張感」とは、高く飛ぶための準備として、ひざを深く折り曲げることです。緊張感を持って練習する、ということは、ひざを折り曲げる練習をすることです。
巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄氏は言っています。
「大事な試合を控えて、緊張するのは当たり前のことだし、必要なことです。その時、このプレッシャーを(突き抜けて)楽しめる選手は伸びますね。」
つまり、緊張感を持って練習を重ねてこそ、本番での空気に負けずに、それを楽しむことが出来る、ということです。「楽しさ」とは、初めから求めるものではありません。

 「技の準備」。
ここはどうやるの?自分はここに気を付けてやろう!等々、受審を決めた後、技術的な準備は、多くの人が当然のようにやることです。しかしこれは、前述の「心の準備」すなわち「緊張感」が伴わなければ、「仏作って魂入れず」です。

 「体の準備」。これは、受審日に向けて、体調を整え、体力を養うことです。
以前、演舞披露を半年後に控えて、足腰を鍛え直すためにジョギングを始め、本番当日、見違えるような演舞を見せたある有段者の姿は、今でも私の中にはっきり焼き付いています。

「技」とは、それを支える「心の準備」と「体の準備」があってこそ、初めて形になるのです。

受審しようとするなら、なるべく早く決める。そして、しっかり「準備」を始めてください。
いざ、受審日が決まった時に、その日がどうしても受けられないとしても、それまでの準備はすべて、あなた自身の内なる「力」として蓄えられています。
  リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第60回 総評:私たちが大切にしたい二つの「美しさ」

             2012年12月9日実施第60回級段位審査会が、無事終了しました。
今回は、審査会当日の講評でお話しした内容を、もう一度ここで述べます。

私たちが、リズミック・カンフーを通して、磨いて行きたい美しさ。その一つは、
「誰にでもできることを、誰よりも美しく」です。
リズミック・カンフーは、競技スポーツではありません。相手を打ち負かすものでないことはもとより、人より高く飛んだり、素早く動いたり、柔軟性を競うことはありません。
普段のレッスンを、なぞってついて行くことは、半年、一年ほどで、ほとんどの人が出来ます。その誰もが出来ることを、30年近く続けている人までが、一緒に、同じ中身のレッスンを、行っています。

なぜそうなのか?それは、リズミック・カンフーが、何かが出来るようになることを目的としているのではなく、「磨くこと」それ自体を目的としているからです。

正拳突や前進前屈に伴う「体重の移動」、まっすぐ「前を見ること」、「振り返ること」、そして「まっすぐ立つこと」。それら、シンプルなことを、ひたすら磨く。それらを通して、自らの身体を磨き、精神を磨く。そこに生じてくる美しさを、大切にしたいのです。

もう一つの美しさ。
それは、他の人との違いを、とことんそぎ落とし、誰とも区別がつかなくなったその先に、初めて内側からにじみ出て来る、唯一、固有の「個性」の美しさです。

私たちは自分の個性を出すために、他との違いを見つけ、そこを際立たせようとしがちです。
しかし、表面に盛り付けられた違いは、一見個性「的」に見せることはできても、あなたの真の個性は、実はますます奥底に潜み、どこにも見えて来ません。

審査会では、皆が同じ服装で、同じ動きを繰り返し行います。審査種目の大半は、普段のレッスンの基本そのものであり、基本の練習とは、「自己流、我流を取り除く作業」なのです。
一見、「無」個性的なその光景の中、基本の行き着く先の最後の、さらにその先で、どうしても真似のできない何か、誰にも真似のできない何か、が顕れてきたとき、それこそが、純化された、自己の奥底から掘り当てた「個性」なのです。

この二つの美しさは、決して別物ではなく、あなた自身という織物を織り上げていく、縦糸と横糸です。
「誰にでもできることの美しさを極める」、そこから炙り出される、「自分にしかない美しさを極める」。こうして「わたし」という織物を、丹念に織り上げていく。
そういう楽しさが、リズミック・カンフーにはあるのです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第59回 総評: 自分の振り見て、我が振り直る?

   2012年6月17日実施 第59回級段位審査会が、無事終了しました。
第57回の総評、「仲間から学ぶ力」について、もう一度、述べたいと思います。
なぜなら、壁にぶつかっていると思っている人は、いまだに、そこから抜け出そうと懸命に目前の扉を押し続け、あきらめたり、体当たりをしたりしています。
一方で周りの人たちは、その扉を手前に引いて、いとも簡単に外に出て行っているからです。

「習慣は第二の天性(キケロ)」
ドアの開け閉めばかりでなく、いつの間にか身についてしまった癖、無意識に積み重ねてきた言動の習性を改善するのは、容易ではありません。
これを直そうとするのに、いくら自分で頑張ってみても、思うようにはいかない。体の使い方、ものの見方、直そうとする心の持ち方、すべてにその人固有の「習性」が染み込んでいるからです。
それは自分の体の中心に、ひとたび曲がって打ち込んだ太い釘を、真っ直ぐに直そうとするが如くです。
そんなこと、自分の力だけで出来ますか?
長年続けてきて、覚えたはずの動きを改善し、さらに成長させる「鍵」はここにあります。

自分は短気だ、と分かっていても、それを直すのは簡単ではありません。
それは、自分がどういう状況のとき、そういうことに対して、何故短気になってしまうのかが、分からないからです。
型技の形が分からないときや、カウントがあいまいなときは人を見るが、自分が直したい姿勢や体の使い方については人を見ない、見ても表面だけで、その人から学んでいない。
気の短い人が、ただ意地になって「短気はやめるぞ!」と、頑張っているだけでは、なかなか改善は見込めないのと同様です。

出来ている人も、出来ていない人もそうなるべきしてなる様々な要因があります。気の短い人からは、それらの諸原因を学び、自分に当てはめ工夫し、気の長い人からは、その「呼吸」を学ぶのです。
上手な人だけでなく、いろいろな人を見続けていると、客観的な目が育ってきます。
この「見る力」がつくことで、自分のことも、その原因も、練習の方法も、自ずと分かってくるのです。

人はみな、はじめは先輩を見て学ぶことが大切です。しかし上級、有段者になったら、それだけではだめです。ぜひ、人の見方も、上級者になって欲しいものです。
「出来てからが練習の始まり」と言いますが、「出来てからが新たに見ることのの始まり」です。
「人の振り」を見る力を、養いましょう!
でも、そんなに難しく考え、悲観するばかりでもありませんよ。
だって、皆さんが培ってきた「よい習性」は、これもまたちょっとやそっとでは、失われないのですから。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第58回 総評:「苦手」を「得意」にする底力

   2011年12月11日実施 第58回級段位審査会が、無事終了しました。
審査会当日の講評で、私の大先輩の武術家が、ある事故で片腕を失った、その後の話をしました。

個人にしろ、社会にしろ、あるはずのものを突然失ってしまう、という災難に出会ったとき、人間はとてつもない力を発揮することがあります。
その現実をしっかりと受け止め、正面から対峙する覚悟がひとたびできると、今までその人が想像もしなかった「底力」が湧いてくるのだと思います。
一方でこの覚悟が出来ずにいつまでそれを嘆き、自分への慰めや、言い訳を探していても、事態は何も変わらず、惨めな自分を見続ける、あるいは見て見ぬ振りをする日々が、ただ過ぎて行くだけです。

ここで履き違えてはいけないことは、そういう力や勇気が持ててから対峙するのではなく、「そこから一歩も逃げない」という「覚悟」をまず決めることこそが、この潜在力を引き出すのだ、という事実です。

この「見えざる力」を引き出すために、あえて悲運を待つ人はもちろんいません。今すぐ出来る、私たちの誰にも内在する、これと同質の力を引き出す方法、それは、自分にとって「大の苦手なもの」ときちんと向き合うことです。
多くの場合、苦手なものに対しては、言い訳があったり、食わず嫌いだったりで、それと真正面から立ち向かう姿勢自体が出来ていません。
「その姿勢をまず正すこと」、ただそれだけです。 それがなかなか出来ないんだ、ではなくて、まず「出来た」と言葉に出すことです。

自分の苦手なものにきちんと取り組み始めると、人の動きをよく見るようになり、自分の動きをよく振り返るようになります。
出来ないこと、苦手なことに向かっているのですから、謙虚にこそなれ、自惚れる心配はありません。
どうしたら少しでも進歩の糸口をつかめるか、真摯に自己と向き合うようになります。
それを繰り返して、今まで出来なかったことに少しでも変化が出てくると、他人から見ればほんの些細なことでも、「やれば出来る」と小さな勇気が湧いてきます。
好きなことが少し上達するのと違い、これまで知らなかった自分の力の発見です。
こうして初めは小さな勇気が、徐々に大きくなって、今まで出会ったことのない「信じられる自分」が誕生するのです。

今回の審査会で多くの人から、まだ見ぬ潜在的な力を強く感じました。
皆さん、今の自分に見える力が全てと思わず、是非、体の底に潜む「未だ見えざる自分の力」を引き出してください。その底力を十分に引き出すために、「苦手」の克服にとどまらず、「得意」にまで高めてください。
これは、技が一つできるようになる、の話ではありません。皆さん一人一人の地力を高める話なのです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第57回 総評: 仲間から学ぶ力

   2011年6月12日実施 第57回級段位審査会が、無事終了しました。
今回の作文のテーマでは、「日頃周りの人からどのように学んでいるか」について聞きました。
そこには、レッスンに対する皆さんの取り組みの姿勢が、浮かび上がってきます。

自分の動きがちょっと不安になったとき、チラッとお助け、あるいは参考程度に周りを見る(これはほとんど習慣になっていて、本人も気付いていないかもしれません)。
こういう人は、自分の不確かなところを直視しないで、すり抜けてしまうために、いつまでたってもそこを改善できず、自覚も曖昧(あいまい)なままになってしまいます。

また、他の人の動きが目には入っても、「私は私の課題にしっかり取り組んでいる。」の意味を誤って解釈し、自分で自分の先生を続けていると、いつの間にか心が澱(よど)み、周りが見えなくなります。

一方で初心者、有段者を問わず、伸びる人は清流のごとく澄んだ心で、先輩、同輩、後輩から、実にたくさんのことを学んでいます。
何の先入観もない透明なフィルターを、様々な人の一挙一動、さらに心の状態までもが通過し、いつの間にかその人が必要としているものが、自ずと心身に堆積(たいせき)されていくのです。

レッスンでは、経験も、年齢も、体格も、性格も違う人たちが、同じ事を行っています。そこはまさに学びの宝庫です。赤ん坊や子供がそうであるように、少なくとも初心・初級者は、先生から教えてもらう何倍ものことを、周りの人たちから学びます。

それがいつの間にか、皆で一緒にやっているはずのレッスンを、自分ひとりでやっているかのように錯覚している人が結構いました。周りの人のことは、「見えて」はいても、「見て」いない。たまに見ても、解説の材料で終らせてしまっています。

「自らの中で学ぼうとする力」には限界があり、「皆から学ぶ力」には無尽蔵(むじんぞう)の世界が待っています。
より多くの仲間がいる環境は、より多くの学びの材料があるということ。
審査会も、補習会も、参加する意義はまずここにあります。

周りから多くのことを学んでいる人に共通すること、その第一は「感謝の心」でした。レッスンの最後に、皆で「ありがとうございました」と挨拶します。それは、今日も一緒にレッスンできて良かったね、というだけですか?皆さんはそのとき、どういうことに対して、どういう気持ちで「感謝」していますか?
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第56回 総評:審査会は、レッスン以上にレッスン的である

   2010年12月19日実施 第56回級段位審査会が、無事終了しました。
「人生は、地獄以上に地獄的である。」
審査会の後、ふと心をよぎったのが、芥川龍之介の小説のこの一節でした。

私もそうでしたが、多くの皆さんも、級段位審査会は日頃のレッスンの成果を試す、あるいは少なくともレッスンとは別の場、と思っていませんか?
しかしここで、主体を「レッスン」ではなく、「審査会」に置き換えてこの半年を振り返ってみると、「審査会」はまさに、普段のレッスン以上に、そこで必要な要素が凝縮した「レッスン会」なのだと、思えてくるのです。

ある受審者から、「今までどうしても上手く出来なかった種目が、この審査会で初めて出来た。自分でもびっくりしている。」という話を聞きました。
考えてみれば、「審査会」をどう位置づけようが、そこでやることは、いつもと何も変わらない、同じことをやるのです。

「練習で出来ないものが、本番で出来るはずはない。」
一見当然で、謙虚にすら響く台詞ですが、一体誰がそんなことを言い始めたのでしょうか? 実は、スポーツの世界でも、それ以外でも、いざというときに普段以上の力を発揮した人たちの晴れ晴れした姿を、私たちはたくさん見てきています。

さあ、これから審査が始まります。そのときの緊張感、集中力、真剣さ・・・・・毎回のレッスンが審査会だとしたら、どんなに充実して、成果の上がるレッスンになることでしょう!

審査会には当然、級段位の認定があります。
学校の入学試験と違って、審査会では認定は目的ではありません、と折に触れて話します。
一方でこの「認定」こそが、審査日までの練習での「集中力」や、当日の「真剣さ」を引き出してくれる、魔法の「スパイス」なのです。

「より真剣に動く」。「より真剣に周りの人を見る」。「より真剣に他からの視線を意識する」。
どれ一つとっても、普段のレッスンで大切な心がけであり、そのどれもが、どこよりも高まるのが審査会です。

レッスンに必要な、あなたのあらゆる「力」を最大限に引き出す「級段位審査会」に、心をおおらかにしてこれからもどんどん参加しましょう。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第55回 総評: 審査会は「心」のダイエット

   2010年6月21日実施 第55回級段位審査会が無事終了しました。
「心」を動かすのは「体」。「体」を動かすのは「心」。と、今回の講評でお話しました。

審査会が終って自分を振り返るとき、あそこは出来た、出来なかった、とつい「体の動き」にばかり気持ちが行きがちです。今回は、それはちょっと横に置いて、初めから終りまでの自分の「心」の状態を、思い出してみましょう。

「心」は、動きの「ブレーキ」にもなれば「アクセル」にもなります。
あなたがもし、「こういうことに気をつけてやろう」という動きへの心掛けを、言葉のままで留めていたとしたら、それはあなたの動きにブレーキをかけていたでしょう。

普段の練習でも、判断するのは頭です。しかしそのままでは、体は伸び伸びと動いてくれません。
そういう練習を何度繰り返しても、それは間違った回路を体に覚えこませるだけです。

判断した内容を心に落とし込む。
それは体の動きを、文字や言葉のままではなく、絵に置き換える、ということです。
その絵を動画にして、さらに立体的に、そのときの呼吸、音までもリアルに心に描く。
このイメージがアクセルとして、あなたの体の動きを後押しする。
こうした心の働きこそが、「心」のダイエットにつながるのです。

一言で表すなら、「言葉は頭、絵は心」です。

そのようにして培われた自分の姿が、審査会場でも心に描ける。躊躇なく心に流れ込んでくる。
柔らかく、想像力豊かで自在な心が、あの心地よい緊張感の中で解放され、躍動するとき、あなたの体は、どんどんアクセルを踏み込んだ状態に、高められていきます。

20世紀後半のイタリア映画界の名優マルチェロ マストロヤンニは言っています。
「俳優として、目の前にある役柄を分析して、それになろうとしているうちはダメだ。
私が考えたり悩んだりして、それになろうとするのではなく、その役が私の中にスーッと入ってくる。
そういう心の状態になれることで、その役が、私の肉体を通して、生き生きと演じ始めるのだ。」
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第54回 総評: リズミック・カンフーの原点「桃源郷」

   2009年12月13日実施 第54回級段位審査会が無事終了しました。
RK生誕25周年。「桃源郷」も四半世紀もの間、皆さんに愛されてきました。
これまでの全54回の級段位審査会でも、桃源郷は全員が必ず行っています。
今回はこの「桃源郷」に焦点を当てます。

リズミック・カンフーはレッスンの構成を、特に大切にしています。
底辺にあるのは交響曲の構成です。耳から心地良く入って来て、感動にまで導く流れ、組み立てがシンフォニーにはあります。
それを基に、レッスンでは音を体に響かせ、全身で聴きながら、心身が一番悦ぶ運動になるように順序、組み立てを構成しています。
座禅の静寂は音の始まりです。静寂という音があるからこそ耳に聴こえる音が始まる。そして次がある、そこがあるからさらに次が動き出す、こうした積み上げと広がりが心と体を高揚させ、充実と統一へ導いて行きます。
全ての種目、内容は、体に良いからというだけで、健康食品の羅列のようにかき集められたものではありません。この構成こそが、美味しいディナーコースなのです。

座禅はこれから運動をする心の準備であり、ストレッチは運動のための体の準備です。それに続く基本作法は、全身を運動に慣らしながら、桃源郷の下半身と体幹の使い方、肩、腕、手指の運動の基本を練習します。
運歩法では下半身をさらにしっかり使い、様々な上半身の動きに振り回されない足腰の柔軟性と強化を図ります。
こうして進められてきた内容は、「桃源郷」に至って全身を統合に導きます。
それぞれの種目は、一つの要素であって、そのつながりにこそ命が流れているのです。
得意、苦手、出来た、出来ないに振り回されていては、命は寸断されてしまいます。

また、こうして「基本演舞・桃源郷」が高められない限り、さらにその先にある応用演舞は、花を咲かせることは出来ません。

全ての基本練習は桃源郷に通じ、全ての演舞は桃源郷に始まる。
「桃源郷」はリズミック・カンフーの要(かなめ)なのです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第53回 総評:「後 姿」 を 磨 け

   2009年5月31日 第53回審査会が無事終了しました。

自分の姿勢や動きを客観的に見つめたり、判断するというのは簡単ではありません。まして、他人と自分との比較となるとなおさらです。
習い事の世界では、
「ある人を見て、自分よりちょっと上だと感じたら、その人はあなたより数段上。
自分と同レベルに見えたら、その人はあなたより明らかに上手。
どう見ても自分の方が上だと思ったら、あなたの力はその人と同じレベルにある。」という戒めがあります。

人間には元々自分をひいき目に見てしまう習性がありますが、それはさておき、私たちは何を拠りどころに自分の姿をイメージするのでしょう。それは鏡に映る自分です。
しかしその姿は、自分の「前面という一平面」に過ぎません。
一方他人は、横からも、後ろからも、まさに「四方八方から立体的」にあなたを見ています。
この見方の「多面性や次元の違い」が、自分と他人の評価の差にはっきり表れるのです。
さらに、人の「前姿」には「顔」をはじめ、見た目を紛らわす部品や装置が多い。
それに比べて、後姿は実にシンプルです(お腹周りだけ見ても、前面は凹ますことが出来ても、後ろは出来ません)。また後姿には、その人の心の状態までもが表れます。
頭隠して尻隠さず、という言葉がありますが、前を飾って、後ろはほったらかし、ではなんとも格好がつかない。人は一見、前面に惑わされやすい。そして自分の前面にも様々な気を遣い、そこを見たがるのですが、「後姿はまさにその人の真実を語る」と言えるでしょう。

「自分が見る自分の姿」と「他人が見る自分の姿」は違う、ということを理解し、受け入れた上で出来る「客観的自分磨き」。
それは日常でもレッスンでも、自分の後姿を、出来るだけ立体的に想像してみることです。そのイメージを保ちながら立ったり動いたりしてみると、今までは眠っていた神経が体内で目覚め、新しい身体感覚が生まれてきます。
「後姿を磨くという意識」、それだけでなんか前面も変わってくる感じ、しませんか?

武術の世界では、「後ろに隙(スキ)を作らず」です。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第52回 総評:「伸びる人」はここが違う

   2008年11月30日実施 第52回級段位審査会が無事終了しました。
真剣に審査をしながらも、思わず微笑む瞬間、感心させられる姿に何度も出くわします。
その中で、初心者からも、有段者からも見えてくる「伸びる人」に共通する姿があります。

初心者、初級者の場合、まだ慣れていない動きがいろいろあります。さらにはこれまで教室では、やっていなかった種目に出くわすこともあります。そんなとき、日頃からうまく出来ても出来なくても、人をよく見て懸命に真似をしながら練習していると思われる人は、形は荒削りであっても、勢いがあります。

中上級者から、有段者になると、様々な型や動きに対しておおよそのイメージができていて、多くは人を見る機会が少なくなります。
一方長年続けていても、普段から人の動きをよく見ている人は、動きや体の使い方に対して、客観的な目や観察眼が自ずと養われます。(これは、自分がうまく出来ないものだけ、人の動きの外形をちょっと見る、というのとは本質が違います。)

初心者、初級者のうちは、他の人をよく見ないとなかなか上達しない、というだけで済みます。しかしこの「人を良く見る目」の差が、やがてその人の練習が「正しい方向に積み上げられていくか」、「『我』の方向に迷い込んでしまうか」の違いにはっきり表れてくるのです。

「人の動きを一生懸命見ること」こそが、初心、初級者の上達を早め、中上級者や有段者にとっては、練習を正しい方向へ導く「学び方の基本」です。
『人を見て一生懸命学び、自らに帰って一生懸命練習する。』
初心者でも、有段者でも、伸びる人はここが違う、ということを今回の審査会で改めて学びました。

学んで時に之を習う 亦た説ばしからずや (孔子)
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第51回 総評:「基 本」とは弛みなく心がけるもの

   2008年6月1日 第51回級段位審査会が無事終了しました。
前回の総評で、
「初心者も有段者も、技術を支える『基本』は変わらない」
「より深い基本こそが、より高い技術を支えている」ということを述べました。
今回はその「基本」について、さらに考えを進めてみましょう。

例えばドライバーの基本である「安全運転」を、それはもう身に付いている、と思う人がいるとしたら、恐ろしいことですね。
あるいは、人が生きるうえでの基本の一つ、「感謝の気持ちを忘れないこと」について、私たちは「身に付いた」という捉え方をするでしょうか?

何々を身に付けるにはどうしたらいいでしょう?とか、なかなか身に付かなくって・・・・という話を聞くことがあります。
しかしこの「身に付く」とは一体どういう状態なのでしょうか。出来るようになる、ということでしょうか。
安全運転が出来るようになる、感謝が出来るようになる、ということでしょうか。
教習所では安全運転が出来るようになったとしても、一般道路で不意に子供が飛び出して来たら?高速道路では?好きな人には感謝出来ても、気に入らない人には?

基本にそこそこ慣れてくると、いつの間にかハンドル捌きがどうとか、感謝の気持ちをどう表すかなどと、一見高尚で実は枝葉末節なことに心を奪われてしまうことがあります。そして、その先に待っているのは「自己流の積み上げ」という途方もない迷路です。

『基本』とは『極意』である」と喝破する古武術もあるほどです。初心者もさることながら、むしろ長く続けている人ほど、普段のレッスンでも、演舞でも、片時も忘れることなく心と体により深く刻み込む指標、それが基本なのです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第50回 総評: 一緒にやって、見えてきたもの

   2007年12月2日 第50回級段位審査会が無事終了しました。
級段位審査会は、これまでは2部制で行われていました。
それが今回は、初心者から有段者までが一緒に受審できる形になりました。
現在リズミック・カンフーは第93期です。1期生から92期生までが一堂に会して一緒に動いている様子は、リズミック・カンフーの歴史絵巻を紐解いているようでした。
その中でもとりわけ印象深かったことを二つ取上げてみます。

これまでは1部の初心者・初級者と、2部の中上級者・有段者とは、見方を少し変えるところもありました。ですから今回は視点が増えたり、複雑になることも予想していました。
しかし、こうして全体を一気に見て明白になったこと、それは「初心者も有段者も、技術を支える『基本』は変わらない」というきわめて当たり前の真実でした。
見るべきところはかえってシンプルになりました。
『基本』とは土台を支えるために地中に打ち込まれた杭のようなもので、より深い基本こそがより高い技術を支えています。
それぞれの段階の、様々な個性の人がいればこそより鮮明になってくる、誰にも共通する大切なもの、それが講評でお話した「大きく、伸び伸び動く中での『基本の三点セット』」です。

もう一つは、このように1部の人たちと2部の人たちが一緒になることで、受審者一人一人から今までとは違う強いエネルギーが感じられたことです。
そこから見えてきたものは、「先輩に引っ張られる後輩」と「後輩に押し上げられる先輩」というそれぞれの姿でした。
「引っ張る先輩の力」と「押し上げる後輩の力」。この二つが、1期生から92期生に連なる全受審者の中に湧き出していたのです。
このようないい先輩といい後輩の間柄は、一つの教室の理想をも彷彿とさせる素晴らしい光景でした。

第50回リズミック・カンフー級段位審査劇場を堪能しました。
ありがとうございました。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第49回 総評:「どうやるか」は多くの人が知っている
          「自分がどうやっているか」を知る人は少ない


   2007年6月3日実施 第49回級段位審査会が無事終了しました。

今回特に印象に残ったことの一つは、1部の会場の空気です。
いつもと変わらないレッスンをしているような雰囲気で、しかも適度な緊張感の中でも伸び伸びと動いている皆さん一人一人に、凛とした武道場とあの高い天井がとてもよく似合っていました。

毎回のレッスンでも、うまく出来る、出来ない、はいろいろとあるはずですが、あまり気にもせずに過ごしてしまいがちです。しかし審査会となると自分の動きにいつも以上に注意が行き、あそこがうまくいかなかった、とか、ここで失敗した、と気にする人がいます。でも、そういうことは普段のレッスンで気にすればいいのであって、審査会では出来た、出来ないは二の次。
「楽しくやるのが一番!」と、改めて皆さんから教えられました。

2部については、講評でも申し上げましたが、「指を見て月を見ず」の感のある人が見受けられます。
長く続けていると、ここはこう、あそこはこういうふうに・・・・、といろいろ注意ポイントが増えてきます。 一つ一つをじっくり自分の体に染み込ませて行かないと、やがて実力を積み上げるのではなく、「指針の山積み」になってしまいます

「禅」の世界ではこれを、「指を見て月を見ず」と戒めています。

どんな指針でも、自分の体に何度も何度も問いかけ、何度も何度も言い聞かせてようやく、自分の体を通しての、理解への一歩が始まります。

どのように動いたらよいのか、というのは指針であり、まさに指し示す「指」です。
その指を見て、なるほど、フムフム、と納得しながら、またあるときは、うまくいかないと首をかしげながら動いているとき、その人の体はもぬけの殻になっています。

「月」はどこにあるのでしょうか?
言うまでもなく、それはあなた自身の体の内側です。
さあ、身体感覚を研ぎ澄まし、「どうやるのか」はともかく、『今、自分がどう動いているのか』を、全身を砕いて見極めましょう。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第48回 総評: 美味しく食べてこそ栄養になる

   2006年12月3日 第48回級段位審査会が無事終了しました。

1部、2部ともに、種目の大半はいつもレッスンで行っていることなので、それぞれの動きの個性や、その人が普段課題に取り組むときの心持も自ずとそこに表れます。
今回はこの「課題」との取り組みについて考えてみましょう。

下を見ない。爪先と膝の方向に気をつける。体重移動をしっかり行う。結期を決める。姿勢に気をつける等々、テーマは様々です。
ただ、より真剣さが増し、日頃の課題への意識が高まるにつれて顕著になってくるのが、呼吸が細くなる人と、呼吸が太くなる人の差です。
これはきっと、教室のレッスンでも同様だと思われます。

毎回のレッスンの中で、今日は何も余計なことを考えずに思い切り動こう!というのは大いに結構です。また、現在の自分の課題を踏まえて練習することも大切です。
皆さんは指導員のアドバイスや、順番を覚える、柔軟性を高める、或いは体の歪みや苦手な動き、悪い癖など、今ぶつかっている壁の克服を、その時々で自分の「課題」にしていると思います。

ところであなたは、それらの課題と楽しく取り組んでいますか?
「これができるようになりたいのに・・・」 「ここを克服したいのに・・・」 「これは私には無理かも・・・」 と、
内心で顔をしかめていませんか?そのポイントはあなたの向上心があればこそ、せっかく定めたものです。
でもそれらへの対処法は「時間をかけてやるしかない」 という気持ちのままで練習を続けているとしたら、自分を向上させるはずの課題がいつの間にか動きを萎縮させ、もっと伸び伸びと動けるはずのあなたの「お荷物」になってしまうこともあり得ます。

「課題」とは本来、その人の体や、体の使い方を高める「栄養分」です。あまり好きではないけれど、体のためになると言うから食べよう、ではせっかくの滋養豊かな食べ物でも、なかなか実になりません。一方、おいしい!おいしい!パクパクパク・・・・・ と 『美味しそうに課題を食べちゃう人』は、栄養分がどんどん吸収されるし、まだその成果は半ばであっても、動きは自ずと勢いを増し、輝いてきます。

あなたの課題、美味しくいただいていますか?
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第47回 総評:「体 力」「技術力」「気 力」について

   2006年6月11日実施 第47回級段位審査会が行われました。

審査会場に一歩入ると、そこに漂う凛とした空気はいつもすがすがしく新鮮です。それは受審者一人一人の姿勢が、全体としてかもし出す空気なのでしょう。その空気が、審査が始まると徐々に熱気を帯びてきて、やがて解放と発散に変わっていきます。
そこで見えてくるのが、皆さんの「体力」・「技術力」・「気力」です。

「体力をつけたい」というのは、誰にも共通のテーマだと思います。
その体力をつけるにはどうするか?
まず、何となく惰性で動かないこと。次に「考えて動かず、感じて動く」ことです。考えて動くと、動きが小さくなります。感じて動けるようにするには、少しずつでも大きく伸び伸びと練習を繰り返すことです。

さらに「技術力」の土台は、やはり「体力」です。
その上で、技術の向上を図るなら、片時も基本を忘れないこと。
出来ているからさあ次だ!とか、出来ていないから練習しよう!ではなく、『出来ていてもいなくても、いつも気をつけるポイント』、それが基本です。
基本が出来たから応用を、ではありません。応用の中でも、練習の主眼は基本です。

例えば、レッスンの最初から最後まで、(あるいは演舞でも)「つま先と膝の方向」をずっと忘れずに練習する。
こういうことは初心・初級者よりむしろ、上級・有段者がないがしろにしがちなところです。長くやっている人より、始めたばかりの人のほうが進歩が著しいことが多いのは、この辺にも一因があるのかもしれません。

そして「気力」。
受審すると決めて臨んでいる以上、誰でも「しっかりやろう」と思っています。
そこで振り返ってみたいのは、そこに現れている「気力」の中身です。
ある人からは、とてもおおらかで包み込まれるような気力を感じ、またある人からは、硬く、跳ね除けられるような気力を感じるのです。
それは「自ずと湧き出る気力」と「出そうとして出している気力」の違いです。
その人自身から自ずと出てくる気力は、伸びやかで、柔らかな力強さが伝わってきて、その人本来の力をより大きく増幅しています。
それに比べて、それを出そうとしていると感じられる気力は、一見強そうですが、ちょっとしたことで砕け散ってしまいそうです。

では、どうしたら『気力が自ずと溢れ出るような体と心の状態』になれるのでしょうか?

「体力」「技術力」「気力」の維持・向上のために、級段位審査会を、日頃の練習に弾みをつけるきっかけにしていただきたいと願っています。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第46回 総評:「動 き」は 語 る

   2005年12月9日 第46回級段位審査会が無事終了しました。

いつもの第2武道場と違い、今回は第2競技場で行われ、天井も高く、広い会場での審査でした。

審査会が始まったときは、いつもと違う解放感はこの会場のせいかな・・・、と思いましたが、やがて、受審者の皆さん一人一人から出ている空気に気がつきました。
1部の最後の講評で、「はじめの座禅の姿勢が、とてもキレイでした」と言いましたが、後で思い出してみるとそれは、姿勢がキレイというより、「姿勢が明るかった」という表現がピッタリです。
そしてその空気は、動きに入っても変わらず、一人一人一生懸命やっているのに伸び伸びとしていて、見ていて心が和む審査でした。

2部になると、いろいろ気をつけたいポイントも増えてくるとは思いますが、確かにきちんとは動いてはいても、何かが重く、こもっている感じがしました。この空気はどこから来るのでしょうか。

中上級者ともなると、普段のレッスンでも、初級者より様々な課題を持ってレッスンをしていると思います。
中には、課題に沿ってレッスンをすること自体に慣れてしまっている場合もあるかもしれませんが。「そのレッスンと、審査会で動くときと、どちらが真剣ですか?」「もちろん両方とも真剣です」と答える人が多いと思います。

では、普段のレッスンと審査会の違いはなんでしょう?同じ真剣であるにしても、自分の課題は普段のレッスンでしっかり練習し、審査会ではそういうことは忘れて、気持ちを思い切り外に開いて伸び伸び動いてみる。
そういう臨み方が、現在の自分の段階を見てもらうことになるのではないでしょうか。
凡そ、気をつけてやってできている動きは、身についていない動きであり、そこから勢いは感じられません。

「話し方」に例えるなら、皆さんの動きは、「独り言」のような動きになっていませんか?

審査会では、広い会場で、多くの人の前で、「もっと大きな声で伸び伸びと語って欲しい」のです。
それが審査会の醍醐味であり、そこに解放されたエネルギーこそが、皆さん一人一人の更なる力を育んでいくでしょう
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第45回 総評: 自分の中の「生 徒」と「先 生」のバランス

   2005年7月17日実施 第45回級段位審査会は、1部、2部とも、午後の時間帯で行うという、初めての試みでしたが、皆様のご協力のもと、無事終了しました。

いつものことながら、初心者、初級者の屈託ない動きには、心が洗われます。もちろん、始めは誰でも初心者です。
中、上級者の人たちも、一度、自分がリズミック・カンフーを始めた頃のレッスンでの心持を、思い出してみましょう。その頃と今と、何が変わってきているのか、想像できますか?

最初は、右も左もおぼつかなかったものが、少しずつ形や意味が分かってくるとやがて、「自分で自分を判断する目と心」が、芽生えてきます。
この芽生えも始めは、先生から言われたこと、そのものです。
しかしその芽がさらに成長し、自分で言葉をしゃべるようになると、気をつけなくてはいけません。
始めは純粋に「生徒として行っていた自分」の体の中に、もう一人「先生としての自分」を同居させることになります。もちろんこうした心の働きは、人間として当然であり、成長の表れでもあります。
ただ、この「自分の内なる先生」が大きくなりすぎると、それは主客転倒です。この傾向にあると思われる人の動きは、どうも精気が薄く感じられます。

長く続けていると、壁にぶつかっていると感じたり、伸び悩んだりする人がいるようです。でもそれは、きっと自分の中の「先生」の方が感じたり、悩んでいるのでしょう。
それを何とか超えようと思えば思うほど、内なる「先生」は、「生徒」としてのあなたを、大きく支配するようになっていきます。

そんなときは、是非「生徒としてのあなた」を、「先生としてのあなた」から解放してあげてください。長く続ければ続けるほど、「内なる先生」は控えめでなければなりません。

始めたばかりのときは、何一つ思うように出来なかったはずのあなたが、ここまで来ているのは、「生徒としてのあなた」であって、「先生としてのあなた」は、それを補足しているに過ぎません。

健康維持も、技術向上も、伸び伸びと精気に満ちた「生徒としてのあなた」が主人公なのです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第44回 総評:大きな決心も、小さな決意の積み上げ

   2004年12月23日 第44回級段位審査会が無事終了しました。

毎回審査会を重ねていく過程を通して、受審者一人一人の、その人なりの変化や成果を見させていただいて、感じることがあります。

常に自分を成長させたいと願い、進歩する自分を信じ、大きなテーマを課し、確かな前進を望む人がいます。それ自体は、素晴らしい心がけです。
しかし、それがあるとき、まるで、大きな岩を押し転がそうとして、その人の足が地面を滑り、空回りしているように見えることがあります。
もちろんそれでも、その努力は大変なものです。
がゆえに、この汗は、本人を、「こんなにがんばっている」という満足感に浸らせてしまう、麻薬にすらなりかねません

一方で、さほどの力みもなく、何度か回を重ねるうちに、「ああ、この人は、こんな風に歩いているんだな・・・・・」と、
その足跡、成果をもって、その人の心の置き所、方向、芯の強さを、いつの間にか、気が付かせてくれることがあります。

人間の前進、成長、進化というものは、大きな志、大きな力が必要なように思われがちです。
しかし、現実の審査会での、皆さん個人の変化、自ずと表れる進歩は、多くの場合、それよりも、今、目の前にある、もっともっと小さな事柄への小さな意志、小さな勇気、小さな心がけの、積み上げのように見えるのです。

あなたが、かっこいい正拳突を自分のものにしたいと、願っているとします。
そのときは、迷わず、「前をしっかり見る」「爪先を正しい方向に決める」「体重をしっかり移動する」「拳をきちんと握る」「引手をしっかり取る」そういうことのどれでもいい、自分にできる小さなことの一つに、気持ちを落ち着けて、集中してください。

私たちは、大きな決心は、なかなかできません。したとしても、それがが身についたり、実現するまで、なかなか根気が続かず、すぐに崩れてしまいます。でも「小さな決意なら、実行も可能」です。
そこから始めましょう。そして、それを積み上げていきましょう。
毎回の審査会を通して、何人かの受審者が、そういう風に私たちに語りかけています。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第43回 総評:「頭」で動かず、「丹 田」で考える

   2004年6月6日実施 第43回級段位審査会が無事終了しました。
皆さん一人一人が審査会を通して、自分の何かを高めようという意欲が、ますます強く感じられます。
そこで今回は、日ごろのレッスンでの「向上心」について、考えてみましょう。

「最近、どうも自分はあまり上達していないようだ」と思うとき、それは、「自分の目と頭」で「自分の動き」を判断しています。
しかし、この「目と頭」は、リズミック・カンフーを始めたころには、「自分の動きや技術」が初心者であるのと同様に、全く持ち合わせていなかったものです。

レッスンで、私たちは、動きや技術を繰り返し練習しながら、実は、リズミック・カンフーを見る「目」を育て、「頭」を成長させています。
動きや技術は文字通り「体」そのもので、事実以外の何物でもありません。
しかし、自分や他人を見る「目」、判断する「頭」は、指導員や先輩、後輩を見ながら、想像力や錯覚を伴って、自分の「体」という現実には、お構いなしの成長を続けます。

「見る目・判断する頭」と「動く体」の成長が、うまく歩調を合わせてくれれば、問題ないのですが、いつの間にか、「目(頭)」の方が独り歩きを始める場合があります。
こうなってくると、少々始末が悪い。
今の段階の自分には不釣合いな「ものさし」を自分に当てて、自信をなくしたり、独り善がりで、やっているつもりになったりします。
これではまるで、自分が自分の先生になって、魂の抜けた肉体で練習しているようなものです。

一方で、力みが全く無く、集中力が体にみなぎる人がいます。
何が違うのか。
そういう人は、頭で動くことより、ただひたすら「体と動きの真ん中」に「心」が居座った状態で、普段から練習しているように思えるのです。

自分を省みることが出来るのも、人間の技です。
しかし、それに重きが行き過ぎてしまうと、体の中の真の自分自身がおろそかになってしまいます。
そもそも、頭でっかちでは、動くにもバランスが悪い。

人の体は、頭で考えながら動くようには、作られていません。
「身に付ける」とは、「頭(=目)」ではなく、「丹田(=体の中心)」で動く練習なのです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第42回 総評:「結 果」を直すより「過 程」を修正する

   2003年11月30日実施 第42回級段位審査会が無事終了しました。

審査会そのものは、80分という、あっという間の出来事です。
そこで得られるもの自体は、僅かなものかもしれません。しかし、受審を決めた人には、審査会当日までの数週間の間に、いわゆる「受審効果」がはっきり現れ始めています。
自分の体の状態、心の状態に目を向け、それらを少しでも調え、向上させようとする一人一人の姿、気持ちが伝わってきます。
今回は、そうした課題に取り組むときの効果の高め方について、考えてみましょう。

例えば「つま先の方向」。
このとき、「私はつま先の方向に気をつける」と思いながら動くだけでは、
つま先は、なかなか正しい方向に安定しません。

「どちら側のつま先が開きやすいの?」
「どういう動きのとき、どの動きの後に開いてしまうの?」
「そのとき、体重の位置は?足の裏はどうなっているの?」
「なぜ開いてしまうの?」等々・・・。
こうして課題を、より具体的に把握することが先決です。
これがひいては、自分の体への理解にもつながるのです。

あらぬ方向を向いてしまったつま先を、気がつくたびに直す、すなわち『結果を何度も直す』だけが、気をつけることではありません。
自分の注意ポイントについて、「なぜそうなるのか」という原因を、あらゆる視点から探る。さらに「どういうふうにしたらそうならないのか」、つまりそこに至る『過程を修正する』。そこを何度でも繰り返す、という練習が肝要です。

あなたの体のいろいろなところが、じっとしている時も、動いている時も、もっともっと「よく見て欲しい」「感じて欲しい」「理解して欲しい」と、あなた自身に叫んでいます。
あなた自身の体にさらに、広く深く目を向け、耳を傾け、感覚を研ぎ澄まし、愛しんでください。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第41回 総評:「基 本」の次元を高める美しさ

   2003年6月1日実施 第41回級段位審査会が無事終了しました。

今回の審査会では、初めて模範演舞が披露されました。
「模範演舞」というと、そこでどんな演舞が行われるか、ということに関心を持った人もいると思います。
言うまでもなく、第1回の「桃源郷」はRKの基本演舞です。
「桃源郷」をきちんと整えること、さらにその質を高めるために練習を重ねることが、あらゆる動きの基本、演舞の基本になります。

リズミック・カンフーの基本とは、「下を見ない」「爪先の方向(と膝の方向)」「体重をしっかり移動する」「上下動をしない」「結期(それが出来て次に始期)」等、皆さんがどこかで聞いたことがあることがすべてです。
それらは、初心者でも、有段者でも同じです。
しかし、例えば「下を見ない」という基本でも、初心者と上級者では、その質、現れ方が違ってくるところに「基本の積み上げ」があります。基本をいつも自己の中心に据え、その意識と質を高めながら、そこに今の自分の課題を添えてレッスンに取り組むことが肝要です。
「基本は一応できているつもり」でも、その基本が埃を被っていては、どんな課題に取り組もうとも、そこに生じるのは「自己満足」と「悪い癖」だけです。
「基本の積み上げ」とは、ただ「やっているつもり」のがんばりとは違います。

選択部門においても「健」「勇」はもとより、「舞」や「遊」でも、その中心に「基本」に対する意識がしっかりと根付いてる人の動きや姿勢は、手に取るように伝わってきます。

「リズミック・カンフーは、誰もが出来ることを誰よりも美しく」をモットーとしています。
精一杯動いていても、そこからなお「基本が光る様」は、自ずとその動きの質と、併せてその人となりの姿勢の美しさを見せてくれます。
心が和みます。

あなたが、自分の健康管理のためにやるにも、あらゆるスポーツの基本を身につけるにも、カッコ良く動くためにも、どの段階にいても、リズミック・カンフーの「基本」は変わりません。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第40回 総評: 感謝の気持ちに「忠 実」でいたい

   2002年12月15日実施 第40回級段位審査が無事終了しました。

さて、今回の総評のタイトルは、ある受審者の作文課題の中から引用しました。現在五級の受審者が「忠」について書いたものです。


去回私は先生のおかげさまで五級になりました。五級の記号は忠実です。私にとって忠実はとても大切です。
市川教室の中に、励ましとなる生徒さんがいっぱいいます。とくに、たけうち-さんと、ひらい-さんと、かと-さんという人です。
その人たちはいつでもよろこんで手伝って呉れます。私はそういう人たちにたいするかんしゃの気持ちに忠実でいたいです。
もちろん、私の家族にも忠実です。現在スコットランドにすんでいます。そこから日本までは遠いけど家族のきずなはとても強いです。私は家族が大切だからです。

John Meal. (signature) 〔以上原文のまま〕


肩章についてのこの課題は、肩章の文字を自分の前に置いて、その意味や意義を云々しがちです。しかし設問は「その文字の意味を、あなたの日常生活に照らして述べなさい」となっています。
文字の意味するところを自分の内側に向けて照らし、そこに映し出される自分自身の思いや行動、指針をこの機会に思い出し、確認して頂くことを旨としています。
ご紹介したレポートは、「忠」の意味に振り回されることなく、自分の心の中の「忠」なるものを、そのままに示しています。
書くのは苦手、という言葉を耳にすることがありますが、文章力ではなく、精神の力が溢れています。

「功夫」とは、自分の内に潜在する精神と肉体の「力」を引き出すことです。
小さな冷静さで物事を窓越しに眺めようとせず、大きく、自己の内に踏み込み、外に踏み出すことです。

「かんしゃの気持ちに忠実でいたいです」
この一言が、精神を健全にし、心を豊かにしてくれます。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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第39回 総評: 「今日出来たこと」を大切に

   2002年6月2日実施 第39回級段位審査が無事終了しました。

日頃のレッスンで、体験レッスン者や初心者に、
「今日何か一つでも、真似が出来たものを大切にしましょう」と、お話しします。
そのようにして3ヶ月、半年と経つ間に、徐々にレッスンの流れに乗れるようになっていく初心者の進歩には、目を見張るものがあります。

それが中級者、上級者になると、今出来ていることを大切にしない傾向が、いつの間にか出てくるようです。
「今出来ていること」は、やがて「出来ているつもり」になります。
「爪先の方向」「拳の握り方」「結期の形」といった、ごく基本的なこと一つをとっても、基本作法から運歩法、桃源郷を通して見ると、有段者を平均しても70%位の出来です。

出来ているつもり。
それは、その人がかつて「ようやく培い始めたはずの基礎」を、「自己満足を増長させるための土壌」へと変質させていきます。
恐ろしいことです。

「初心忘れるべからず」とは言っても、技術レベルは初心者とは違います。その中でなお、「爪先の方向」「拳の握り方」「結期の形」といった基本に、より高い基準をもち、かつ「初心(=ひたむきな気持ち)」を傾注して、練習していただきたいのです。
難しいこと、出来ないことに関心を向けることも良いでしょう。しかしそれを目指すあなたの足元、体幹、動きを支えるには、相応の、よりしっかりした基礎が必要です。

今出来ているはずの一つ一つに対して、もっと意識の精度と質を高め、それらを一層強固な、確かな自分のものに近づける。
それが、今あなたが出来ている事を大切にする、ということです。
リズミック・カンフー創師 岸 俊和
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